更新された電子書籍アプリから現れた“小さな司書”との出会いによって、物語との向き合い方が変わりはじめる主人公。
読まれずに眠っていた本が、実は自分の迷いに寄り添うために待っていたのだと気づく物語です。
日々の忙しさで本を開く余裕がなくなったとき、そっとページをめくりたくなるような温かさがあります。
通勤中や寝る前に、少し気持ちを整えたいときにぴったりの短編です。
こんなときに読みたい短編です
- 読了目安:5分
- 気分:ほんのり前向き/やさしく背中を押されたい
- おすすめ:読書から遠ざかっている人、働き方や進路で迷っている人、忘れかけていた好きなものを思い出したい人
あらすじ(ネタバレなし)
忙しさに追われ、本を読む余裕をなくしていた主人公の前に、電子書籍アプリのアップデートから“不思議な司書”が現れます。
司書がすすめたのは、かつて衝動買いして開かれなかった一冊の小説。
読み進めるうちに、主人公は自分の迷いや不安と向き合う言葉に出会い、止まっていた気持ちが少しずつ動き始めます。
物語は、必要なときにそっと手を差し伸べてくれる——そんな気づきが、主人公の背中を確かに押すのでした。
本編
スマホの画面に表示された更新完了の文字を眺めながら、俺はため息をついた。
電子書籍アプリのアップデート。
通知には「読書体験の向上」と書かれていたが、正直どうでもいい。
最近は本を開く余裕さえない。仕事は山積み、将来は見えない。
本棚と同じように、スマホのライブラリには買ったまま読まれない本が増えているだけだった。
スマホをポケットにしまおうとした瞬間――
「おやおや、ずいぶん埃が積もってますねえ!」
小さな声が聞こえた。
思わず周囲を見渡すが、誰もいない。
もう一度スマホを見ると、画面の端に小さな帽子の影が揺れた。
「……誰?」
「わたくし、《ポケット司書》と申します。今回のアップデートで、電子書籍たちのお世話を任された者でございます。」
画面の中には、掌ほどの小柄な司書が立っていた。丸い眼鏡と分厚い本を抱えている。
「あなたのスマホには、読まれぬまま泣いている物語がどれほどあるか……聞いておられますか?」
「いや、聞いてないよ」
「ええ、でしょうとも。みんな、寂しいと泣きついてきます。『表紙だけ見られて閉じられた』とか、『1ページも開かれていない』とか……実に哀しい声ばかりです。」
俺は苦笑した。
「本の愚痴なんて聞く暇ないよ」
「おや、だからこそ――本日は一本、推薦させていただきます。」
司書は手に持ったリストをぱらりと開いた。
「あなたの人生の状況、心の状態、これまでの選択……すべてを加味して、いま最も読むべき一冊をお持ちしました。」
「……監視でもされてる気分だな」
「ご安心ください。本はあなたを責めません。ただ、寄り添うだけです。」
そう言って司書が差し出したのは、
『風の止まない丘で』
というタイトルの小説。
買った記憶はある。転職を考えていた頃、誰かのおすすめで衝動買いしたはずだ。しかし結局、読むことはなかった。
画面をそっとタップする。
文字が静かに並び始めた。
気づけば、読み進めていた。
物語は、変化を恐れ、同じ場所にとどまり続けた青年の話だった。
「失敗を恐れて動かない者が、本当に失っているものは未来だ」
そんな一行が胸を刺した。
読み終えたとき、目頭がじんと熱くなった。
ずっと迷っていた。
新しい部署への異動の打診。挑戦したい気持ちと、不安と。
答えを決められずにいた。
画面の隅で、司書がにこりと笑った。
「よい読書のご様子でしたね」
「……ああ。背中を押された気がした」
「物語は、読むべきときに人の手を取るものです。どんなに忘れられていても、その瞬間をずっと待っているのです。」
電車が駅に着く。
スマホを握る手に、少しだけ力が宿った。
「行ってきます」
「お気をつけて。あなたの未来が、よい章へ進みますように。」
画面を閉じると、司書は小さく帽子を取って一礼した。
その日の夜、異動の希望を上司に伝えた。
胸の奥はまだ不安でいっぱいだったが、確かに前へ進めた気がした。
ベッドに横になると、スマホが小さく震えた。
通知には、たった一行。
《ポケット司書より:次の一冊も、ちゃんと待っていますよ》
俺は微笑み、画面をそっと撫でた。
忘れられた物語が、誰かの背中を押す日がまた来るのだろう。
ページをめくるタイミングを、もう見失わないように。

