【7分で読める短編小説】白の底にいる者|南極の白に潜む“記憶”の影と対峙する物語

ミステリー

南極観測基地〈ミール7〉を舞台に、極限環境の中で隊員たちが遭遇する“白の底に潜む何か”を描く心理サスペンスです。
吹雪に閉ざされ、通信が断たれ、そして現れ始める“記憶の声”。救助を待てない状況の中で、隊員たちは自分の過去と、見えない影の正体に向き合わされます。
静寂が支配する世界で、心の奥底が揺らぐような緊張感と恐怖がじわりと広がる物語です。
夜の読書や、ゾクッとしたい気分のときにぴったりの一編です。

こんなときに読みたい短編です

  • 読了目安:7分ほど
  • 気分:緊張感/心理ホラー/極限の静けさ
  • おすすめ:未知の存在を描いた物語が好きな人、静かな恐怖に浸りたい人、サスペンスやSF的な世界観が好きな人

あらすじ(ネタバレなし)

南極観測基地〈ミール7〉で、ある朝突然通信が途絶える。
直後に届いた「ここに 何か いる」という桐生の最後のメッセージ。
その日から隊員たちは、自分の過去の“声”を聞き始め、次々と幻覚のような記憶に襲われる。
外に現れる黒い影、基地を締め付けるように乱れる酸素濃度。
救助も望めず、白い嵐の中で桐生の痕跡を追う隊員たちは、やがて“白の底に棲むもの”の気配と対峙することになる。
それは幻なのか、それとも——記憶を形にする、南極の影なのか。

本編

南極観測基地〈ミール7〉。
その朝は、いつもと何も変わらないはずだった。

気温はマイナス43度。
視界は30メートルほど。
基地の壁がきしむ音だけが、眠っていた空気を割いた。

だが、09:14。
基地内すべての通信が突然、途絶えた。

機器の故障かと思い、通信担当の佐伯が端末を再起動すると、
スクリーンには一行だけ文字が残されていた。

「ここに 何か いる」

差出人は、前夜に雪上調査に出た隊員・桐生。
しかし、彼とはその後、連絡が取れなかった。

「……位置情報は?」
隊長の三雲が硬い声で訊く。

「途絶えています。最後の送信地点は基地から北西2km。ホワイトアウト域です」

窓の向こうは、白い嵐だった。
風が地面ごと空へむしり上げるように吹き荒れている。

外に出たら、数分で命はない。

隊員の誰もが理解していた。
——今日は、救助には行けない。

しかし問題は、さらに深刻だった。
途絶えたのは外部通信だけでなく、内部ネットワークも不安定になり始めたのだ。

「まるで、何かに基地ごと覆われているみたいだ」と誰かが言った。

その言葉に、誰も返事をしなかった。

その夜、発電機の低い唸りだけが響く居住区で、
隊員たちはほとんど眠れなかった。

「……聞こえたか?」
深夜2時、医療担当の咲良が声をひそめた。

「何を?」
三雲が問う。

咲良は青ざめた顔で呟いた。
「誰かが呼ぶ声。耳元で、『戻れ』って……」

たわごとだ、と誰かが笑った。
だが、笑い声には無理があった。

翌朝、隊員のひとりが言った。

「俺もだ。娘の声だった。『行かないで』って」

次の日には別の隊員が言った。

「父さんが、水の向こうから手を伸ばしてた」

そして——

全員が幻覚を見ている。

基地の記録を見返した佐伯は、ひとつの仮説を述べた。

「急激な気圧変化か、酸素バランスの問題かもしれない。
脳が正常に働かなくなってる可能性がある」

だが三雲は考え込んだ。

「同時に同じ症状が出るか? しかも全員、過去の記憶に関するものだ」

咲良がささやくように言った。

「……桐生さんの最後のログ。“何かいる”。
それは……私たちの記憶に触れてるのかもしれない」

沈黙が降りた。

外の風のうなりだけが、壁を震わせた。

二日目の夜。
電力が不安定になり、照明が断続的に明滅した。

薄闇の中、佐伯が叫んだ。
「見ろ!外に何かいる!」

窓の向こう、真っ白な嵐の中に、黒い影のようなものが立っていた。
ぼやけているのに、背筋が凍るほど異様な存在感があった。

「人……か?」
「桐生かもしれない」

だが影は、重力から解放されたかのようにふわりと揺れ、
雪煙に溶けて消えた。

誰もが目を疑った。
幻覚……なのか?

その瞬間、警報音が鳴った。
空気濾過装置の異常警告。酸素濃度の変動。

「酸欠だ、基地が締め出されてる。閉じ込められてるんだ」
佐伯が叫ぶ。

三雲が凍りついた声で言った。

「もしかすると——桐生は何かを見たんだ。
あれは、本当に“いる”のかもしれない」

咲良が震えて言った。
「でも、もし本当にいるなら……私たちの記憶を使って、何を……?」

誰も答えられなかった。

ただ、全員が思った。
——外の白の底には、何かが潜んでいる。

深夜。
突然、警報が止まり、基地の全灯が落ちた。

闇。
風の音。
そして——

ドン。

重い振動が、大地の奥から響いた。
まるで巨人が歩くように。

隊員たちは息を呑んだ。
心臓の鼓動だけが耳の内側で響く。

その中で、咲良がぞっとする声で言った。

「聞こえる……」

「何が?」

咲良は泣きそうな顔で囁いた。

「——呼ばれてる。“迎えにいくよ”って」

同じ瞬間、三雲も声を失った。
その耳にも聞こえた。

三雲……戻れ……
お前のせいじゃない
あの日、俺を見捨てたわけじゃない

それは、10年前に雪崩で亡くなった親友の声だった。

三雲の膝が地面に落ちた。
誰も彼を支えられなかった。

幻覚——か?
それとも……

外で何かが、基地の壁をゆっくり撫でた。
ザザ……ザザ……

白い闇の向こうから、何かが呼吸しているようだった。

三日目の朝。
風が止んだ。

ホワイトアウトが嘘のように消え、外にはどこまでも白い平原が続いていた。

通信はまだ復旧しない。
救助は来ない。

隊員たちは、防寒具を着込み、外へ出た。
息が白く弾け、耳鳴りのような静寂が世界を満たしていた。

「桐生を探す」
三雲が言った。

一歩進むごとに、靴底が雪を裂く音が響く。
その音以外、何も聞こえない。

——何も、いない?

そう思った瞬間、咲良が叫んだ。

「そこ!!」

北西2km地点に、黒い裂け目のようなものがあった。
雪面に、真っすぐ走る深い溝。
その端に、桐生のゴーグルと無線機が落ちていた。

だが、桐生の姿はどこにもない。

代わりに、無線機に小さく刻まれた文字があった。

「見ている」

背後から風が吹いた。

——ザ……

振り返ると、だれもいなかった。

白だけが、すべてを飲み込む。

三雲は静かに言った。

「これは……幻覚じゃない。」

咲良が震えた声で問う。

「じゃあ、あれは何なんですか?」

三雲は雪面を見つめながら答えた。

「分からない。ただ……
あれは“記憶に住む何か”なんだ。
人の痛みや後悔に触れて、姿を作る……
南極に棲む、見えない影だ」

風がさらに強まり、雪が舞い上がった。

白の底で、世界が揺らぐ。

もう、足元もわからない。

目を閉じても、
誰かの声が離れなかった。

——戻れ
——思い出せ
——ここにいる

それは救いなのか。
それとも——終わりなのか。

答えは、まだ白の底に沈んでいる。

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