厳しい冬が訪れ、狩りがままならないなかで、ルグと妹ニアが火のそばで過ごす時間が増えていきます。
疲れ果てた仲間たちを前に、幼いニアが描く一枚の壁画が、まるで火のように人々の心を照らしていく——そんな原始の営みを静かに描く物語です。
火と絵、そして兄妹の絆が重なり合い、言葉より先に存在した“伝わる力”が胸を温めてくれます。
静かな夜や、気持ちを落ち着けたいときに読めば、心にやわらかい余韻が広がるでしょう。
こんなときに読みたい短編です
- 読了目安:7分ほど
- 気分:しんと静か/あたたかい/原始の世界に浸る
- おすすめ:小さな勇気や支えが欲しい人、絆の始まりを感じたい人、創作の源のような物語に触れたい人
あらすじ(ネタバレなし)
冬の吹雪に閉ざされ、火を囲んで過ごすしかない日々。
狩りの疲れで絵を描く気力も失ったルグの背後で、幼いニアが小さな手で壁に初めての絵を刻みます。
ぎこちない線で描かれた鹿は、仲間たちの心に不思議な力を灯し、洞窟の空気を変えていきます。
その出来事をきっかけに、ニアは次々と絵を描き、火と並ぶ“心の支え”となっていきました。
やがて季節がめぐる頃、兄妹は外の光の下で新たな絵を描き始め、未来へ続く物語の始まりを静かに感じ取ります。
本編
冬は容赦なく訪れた。
洞窟の入り口は吹雪に覆われ、外は白い壁のように何も見えなかった。
狩りに出られる日は少なく、火のそばに座る時間が増えた。
仲間たちは疲れ、黙り、祈るように火を見つめていた。
炎のゆらぎだけが、命の証のように思えた。
その夜、ルグはいつものように石片を削り、
壁に小さな動物を描こうとしていた。
しかし手が止まる。
仲間の誰もが疲れ果て、
火は静かに揺れるばかり。
洞窟の空気は重く、絵を描く気力が湧かなかった。
そんな中、背後から小さな足音が聞こえた。
振り返ると、ニアが立っていた。
「アニ、かくの?」
ルグは小さく首を振る。
「今日は……ちからが、ない。」
ニアは壁を見つめて、しばらく動かなかった。
火の光が瞳の中で揺れている。
やがて彼女は、落ちていた石片を拾い上げた。
小さな手。
震えているのに、力強かった。
ルグは驚き、目を見開いた。
「ニア……?」
ニアは壁の前に立ち、
火に向かって小さく息を吸った。
あの日、ルグが壁に初めて線を刻んだときと同じ姿勢だった。
石が壁をかすめる音——
ざり、ざり。
仲間が気づき、ひとり、またひとりと火を囲んだまま振り返る。
ニアはぎこちない手つきで線を重ねる。
丸い形。
細い足。
三角の耳。
幼い姿の鹿だった。
だが確かに、命の息づかいがあった。
壁に火の光が落ちると、
その絵は小さく震えながらも、まっすぐに立っているように見えた。
ルグは息を呑んだ。
——描けている。
——想いが、伝わってくる。
ニアは絵を描き終えると、振り返って言った。
「つよく、なる。みんな。」
その言葉に、洞窟の空気が変わった。
仲間が声を上げた。
「……ニア」
「すごい……」
「見ると、ちからが湧く。」
ニアは小さく笑い、兄の手を握った。
その手は温かく、震えていなかった。
ルグは胸の奥から熱がこみ上げ、
そっとニアを抱き寄せた。
「ニア……きれいだ。すごく。」
妹は照れたように笑った。
「アニが、かいたの。
だからわたしも、かく。」
たったそれだけの言葉が、火の音より深く響いた。
**
それからの日々、壁画は増えていった。
ニアは鹿だけでなく、仲間の笑顔、火を囲む人々、
そしてルグの姿も描いた。
幼い線なのに、見る者の胸を強く揺さぶる力があった。
ニアの絵を見ると、疲れた体に力が戻った。
外に出る勇気も湧いた。
火の光が明るくなった気さえした。
ある夜、長老が火のそばで言った。
「絵は、狩りではない。
火をくれるわけでもない。
だが——心をあたためる。
心があるから、生きていける。」
仲間たちは静かに頷いた。
壁画は、いつの間にか洞窟の中心になった。
炎と絵が、人々の心を支えていた。
ルグは思った。
——言葉はまだ弱い。
——だが絵は、火と同じように心を照らせる。
その気づきが、胸に強く刻まれた。
**
春が近づく頃、雪が溶け始め、
外の森に光が戻り始めた。
ルグとニアは洞窟の外へ出て、
白い息を吐きながら空を見上げた。
鳥が飛び、風が草を揺らす。
ニアは突然、地面の土を指でなぞり、
そこにまた絵を描き始めた。
太陽。
鳥。
火。
そして、人が手をつないでいる姿。
ルグは隣にしゃがみ、妹の小さな肩に手を置いた。
「ニアの絵は、たいせつ。
きっと未来にのこる。」
ニアは目を輝かせ、言った。
「未来のひと、みる。
わらう。
つよくなる。」
その言葉に、ルグの胸が熱くなった。
——絵は残る。
——火のように、人の心に。
遠い未来、言葉が豊かになっても、
この最初の線が、人の心に息づき続ける。
ルグは深く息を吸い、空に向かって静かに言った。
「これが……はじまり。」
ニアは兄の手を握り返した。
火を囲む日々は、
絵を描く日々へと変わり始めていた。
そしてその絵は、
未来の物語になる。
炎の温度と同じあたたかさで。

