【7分で読める短編小説】玄関に戻る歓び|“ばあば”と呼ばれた瞬間に灯る、人生のあたたかな再出発

ドラマ

定年後の静かな暮らしを送る隆子の心に、ある日ふと届いた一枚の写真が新しい色を運んできます。
遠く離れて暮らす孫の姿は、玄関の空気や季節の光景まで明るく変えてくれる、小さな命の贈り物でした。
やがて初めての「ばあば」という声が聞こえた瞬間、長く眠っていた“会いに行きたい気持ち”が胸いっぱいに広がり、隆子の世界は優しく動き出していきます。
夕方や静かな夜に読むと、心の奥の柔らかな部分がそっと震えるような物語です。

こんなときに読みたい短編です

  • 読了目安:7分
  • 気分:しみじみ/あたたかい涙
  • おすすめ:家族のぬくもりを感じたい人、年齢を重ねることに前向きでいたい人、誰かを想って胸が熱くなる瞬間を思い出したい人

あらすじ(ネタバレなし)

息子夫婦が遠方へ移り住んでから、隆子は四季の移ろいを玄関でゆっくり眺めるような穏やかな日々を過ごしていました。
そんな生活を変えたのは、冬の朝に届いた一枚の赤ちゃんの写真。そして日々送られてくる動画が、隆子の胸に新しい喜びを灯していきます。
春のころ、息子から届いた電話で孫が初めて「ばあば」と呼んだと知らされた瞬間、隆子の世界はひときわ大きく揺れ動きます。
“会いに来てほしい”という言葉に背中を押され、長い間しまっていた片道切符を手に取る隆子。
ゆっくりと心を決めていくその時間には、家族の記憶と未来への温かな希望がやさしく重なっていきます。

本編

定年退職してからの隆子の暮らしは、本当に静かだった。
春には庭のツツジの花が揺れ、夏には風鈴が小さく笑い、
秋には落ち葉がさくさくと音を立て、冬には雪の白が窓辺を包む。

その四季の変化を、玄関の靴箱の上に座り込んで眺めるのが好きだった。
息子夫婦が遠方に移り住んでからは、なおさら。

——もう、誰かが急に玄関を開けて入ってくるような毎日はない。

それでも、寂しくはなかった。
それなりに慣れた静けさだった。

そんな生活に、新しい色を連れてきたのは——ひとつの写真だった。

ある冬の朝、郵便受けに届いた封筒。
中には、小さな小さな手をこちらに向けて笑っている赤ちゃんの写真が入っていた。

「……この子が、私の孫……?」

指先が震えた。
思っていた以上に、胸の奥が熱くなった。

そこから隆子の暮らしは、ほんの少しずつ変わっていった。
朝食をつくる前にスマホを開き、息子夫婦が送ってくれる動画を見るのが日課になった。
“寝返り成功しました!”
“今日の離乳食はにんじんです!”
“お散歩デビューです!”

動画に映る孫の声は、まだ言葉にはなっていないのに、
玄関の空気を一気に明るくしてくれた。

「今日も元気ねえ……かわいい子……」

画面越しに語りかけながら、隆子は思った。
——こんなに胸が動くなんて、思わなかった。

数ヶ月後、春の匂いが町に広がり始めたころ。
庭の新芽に水をやっていたとき、スマホが震えた。

「母さん、いま大丈夫?」
息子の声だった。

「どうしたの?」

電話の向こうから、かすかな笑い声と、赤ちゃんの息遣いが聞こえる。

「母さん……聞いてほしくて。今日ね……この子が初めて言ったんだ。」

息子は一度、涙をこらえるように息を吸った。

「“ばあば”……って。」

隆子の手から、じょうろが落ちそうになった。
胸がつまって声が出ない。

「ほんとうに……? ほんとうに言ったの?」
「うん。何度も何度も。“ばあば”って。」

その瞬間、隆子の視界がにじんだ。
膝が少し震えた。
息子は続ける。

「だからね、母さん。来てほしいんだ。また会いにきてほしい。」

電話が切れたあとも、隆子の胸はずっと揺れていた。
嬉しくて、切なくて、会いたくて、たまらなかった。

——あの子が、“ばあば”と呼んでくれた。

その言葉だけで、もう身体の奥から力が湧いてくる気がした。

夕暮れ。
隆子はゆっくり玄関へ向かった。
家の匂いと、誰もいない廊下の静けさがまとわりつく。
けれど今日は、胸の中に灯りがあった。

玄関の壁にかかった額縁を、そっと外す。

そこには、一枚の封筒がしまわれていた。
息子の結婚式の日、帰りの新幹線で買った——
“孫を迎えに行くための片道切符”。

「いつか、この切符を使う日が来ると思って……」

けれど、孫が生まれてからも、体力に自信がなくて出番はなかった。
“歳だから”“迷惑かもしれない”“無理を言うのはよそう”
そんな理由をつけて、ただ額縁の中に隠していた。

今日、その切符の紙は、ほんの少し黄ばんでいた。
だけど——胸の奥で、くっきりと輝いて見えた。

隆子は切符を手に取った。
手が震えても、もう戻す気はなかった。

「ばあば、か……ふふ……言ってくれたのねえ。」

涙を指で拭い、深く息を吸った。
玄関を振り返る。
昔、息子がランドセルを背負って飛び出していった日々。
夫と手をつないで買い物に行った日々。
その全部が、一瞬よみがえった。

玄関は、誰かが“帰ってくる場所”。
でも今日は、自分が“帰るための場所”になってくれた。

「よし……行こう。ばあばが、行くわよ。」

声は震えていたが、しっかりと前を向いていた。

夜、旅行バッグに荷物を詰めながら、隆子は何度も孫の動画を再生した。
「ば……ば……」
その声が聞こえるたび、胸の奥があたたかくなる。

窓の外に星が瞬く。
明日の朝は、久しぶりに新幹線に乗る。
怖さよりも、嬉しさが大きい。
気づけば、自然と笑っていた。

——歳を重ねても、こんなに心が弾む日が来るなんて。

玄関に飾っていた片道切符は、
いつの間にか“生きる灯り”に変わっていた。

隆子はそっとバッグを閉じ、窓の外に向かってつぶやいた。

「待っててね。ばあば、行くからね。」

その声は、夜風に乗って静かに広がり、
玄関の方へ、そして遠くの家族のもとへ届いていくようだった。

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