秋が深まり、山の町が冷たい空気に包まれはじめる頃、カフェで思わぬトラブルが起こり、隆と美咲の関係は静かに新たな段階へ進みます。
店を守ろうとする美咲の不安と、支えたいと願う隆のまっすぐな想いが、同じ時間と作業を通して寄り添っていく過程が丁寧に描かれます。
“助けたい人がいる”という気持ちが、こんなにも世界をあたたかくするのだと感じられる一編です。
落ち着きたい夜や、大切な人を思い出したときに読みたくなる物語です。
こんなときに読みたい短編です
- 読了目安:7分
- 気分:しっとり/胸があたたかくなる
- おすすめ:支え合う関係の物語が好きな人、小さな優しさに救われたい人、がんばる誰かを応援したくなる気分の日に
あらすじ(ネタバレなし)
ある日、「ひだまり珈琲」が設備トラブルで温かい料理の提供を一時停止することになり、美咲は深く落ち込んでしまいます。
隆はそんな美咲を放っておけず、工房の古いオーブンを提供し、修理の段取りまで引き受けることに。
ふたりは配置の相談や部品の確認など、日を追うごとに共同作業の時間を増やしていき、自然と距離も縮まっていきます。
触れた手のぬくもり、閉店後の静かな会話、重ねていく小さな努力——それらは店の復旧だけでなく、ふたりの心にも新しい灯りを灯しはじめます。
オーブンの試運転の日、美咲の味が戻った瞬間に浮かんだ涙と笑顔が、隆の胸に静かで大きな想いを芽生えさせていくのでした。
本編
秋も深まり、山の空気に冷たさが混ざり始めた頃。
隆がいつものようにカフェ「ひだまり珈琲」へ納品に行くと、
店の入口には“本日、一部営業縮小”の札が掛かっていた。
胸がざわついた。
中に入ると、店内の灯りがいつもより暗い。
カウンターの奥、美咲が肩を落として座っていた。
普段ならすぐに「いらっしゃい」と笑う彼女が、今日は声を発しない。
「美咲さん……どうかしました?」
顔を上げた美咲の瞳には、疲労と不安が濃く浮かんでいた。
「……ごめんね、隆さん。今日は少しだけ……店、開ける元気が出なくて。」
いつもの美咲ではなかった。
隆は自然とカウンター内側へ入り、ゆっくり椅子を引いた。
「何があったんですか?」
美咲は一度息を吸い、吐き出すように言った。
「保健所から連絡が来たの。
“設備の一部が基準から外れています”って……
改善が完了するまで、温かい料理の提供は一時停止だって。」
「温かい料理……キッシュ、もですか?」
美咲は小さく頷いた。
「すぐに直せるものじゃないの。
新しいオーブンを入れるには、工事も必要で、費用も高いし……
うちみたいな小さな店が、一気に負担できる金額じゃなくて。」
彼女の声は震えていた。
「他のメニューで続けることも考えたけど……
せっかく隆さんのチーズで作ったキッシュを気に入ってくれるお客さんが増えてきたのに……」
美咲は唇を噛みしめた。
彼女の料理は、町にとって大切な“灯り”だった。
誰よりも彼女自身が、いちばんその灯りを守りたかったはずだ。
隆はゆっくりと手を伸ばした。
「……大丈夫です、美咲さん。」
「大丈夫なんかじゃ——」
「大丈夫です。
俺が……手伝います。」
美咲の目が大きく開いた。
驚きと、迷いと、ちいさな希望が、その瞳に同時に浮かぶ。
「どういうこと?」
「工房で使わなくなった古いオーブンがあります。
部品は足りてるし、修理すれば十分現役で使えます。
工房の友達に、機材を直すのが得意なやつがいて……
頼めば、きっと協力してくれる。」
美咲は小さく息を呑む。
「でも……そんな……頼ってばかりじゃ……」
隆は首を振った。
「頼ってください。
僕、美咲さんや、この店に……どれだけ救われてるか。
チーズを世に出す場所を作ってくれたのは美咲さんです。
今度は、僕が返す番です。」
美咲の目に光が宿った。
涙かもしれない。
でもそれは、悲しみの涙ではなかった。
「……ありがとう、隆さん。
こんなときに、そんなふうに言ってもらえるなんて……思わなかった。」
隆は静かに微笑んだ。
「じゃあ、さっそく動きましょう。計画立てましょう。」
美咲は両手を胸の前でぎゅっと握り、頷いた。
翌日からは、ほとんど“共同作業の日々”だった。
朝の牛舎を終えた隆が工房のオーブンを点検し、
修理担当の友人に相談し、部品を取り寄せる。
夕方にはカフェへ行き、美咲と一緒に設置スペースを測り、配線を確認し、メニューの変更案を話し合う。
二人の距離は、自然と近くなっていった。
作業の途中、美咲が工具箱を引き寄せようとして手を伸ばしたとき、
隆の手と触れた。
「……ごめん」
「いえ、僕のほうこそ」
ほんの一瞬の触れ合い。
それでも、胸が熱くなった。
夜、作業を終えて帰るとき。
カフェの外灯の下で、美咲が隆を見送った。
「……ありがとう。今日も、本当に助かりました。」
その言い方が、毎日少しずつ柔らかくなっていく。
隆は、その変化に気づいていた。
「美咲さんなら、きっとまた前みたいにお客さんでいっぱいになりますよ。」
「そうなるといいな……でもね、少しだけ思うの。
隆さんとこうして店を直してる時間も……悪くないなって。」
不意に胸が熱くなった。
隆は照れ隠しのように視線を宙にそらし、夜風を吸い込んだ。
一週間後。
オーブンの修理は完了した。
友人の協力と、美咲と隆の細かな作業が実を結んだ。
試運転の日。
美咲は新品同然になったオーブンを前に、少しだけ震えていた。
「……怖いな。これでダメだったら、どうしようって。」
隆はそばに立って、静かに言った。
「大丈夫。美咲さんの料理は、お客さんが保証してます。」
美咲はふっと笑う。
「もう……ほんと、ずるいくらい励ますの上手なんだから。」
キッシュが焼き上がった。
黄金色の表面。
立ちのぼる香り。
美咲は一口食べて、涙をこらえるように笑った。
「……帰ってきた。
うちの味が、ちゃんと帰ってきた。」
隆の胸にも、熱いものが広がった。
「おかえり、ですね。」
美咲はゆっくり頷き、隆を見つめた。
その視線は、これまでのどんな笑顔よりもまっすぐで——やさしかった。
「隆さん……本当に、ありがとう。」
声に滲む“特別”な色に、隆の息が静かに詰まる。
壊れた店を直すために始まった日々は、
いつの間にか、ふたりの距離をそっと近づけ、
同じ未来を少しだけ覗きこめるような関係に変わっていた。
店の危機は去った。
だけど、それ以上に——
ここには、
確かに芽生え始めた“ふたりの物語”があった。

