秋の訪れとともに、隆のチーズを使ったキッシュは町の人気メニューとなり、静かな山の暮らしに嬉しい変化が生まれます。
カフェ「ひだまり珈琲」の美咲との距離も、仕事を通じて少しずつ近づいていく季節。
言葉にしない想いが、香りや味、やわらかな沈黙の中にそっと溶け込んでいきます。
落ち着きたい夜や、しみじみした気分のときに読みたい、やさしい秋色の物語です。
こんなときに読みたい短編です
- 読了目安:6〜7分
- 気分:しっとり/あたたかく前向き
- おすすめ:ゆっくり深まる関係の物語が好きな人、秋の情緒を感じたい人、手仕事と人のつながりに癒されたい人
あらすじ(ネタバレなし)
「峰ヶ原チーズの山キッシュ」が町で評判になり、隆は工房とカフェを行き来する日々を送っています。
美咲から届く短いメッセージや、店内で交わす何気ない会話は、隆の毎日に静かな光を与えていました。
閉店後には一緒に試作をしたり、秋の夕暮れに並んでベンチに座ったりと、二人の距離はゆっくりと縮まっていきます。
美咲がふとこぼす悩みや、隆の素直な言葉が交差することで、ふたりの心には小さなあたたかさが積み重なっていきます。
そして、美咲から「市場に一緒に行かない?」と誘いがかかったとき、隆の胸に芽生えた想いが静かに動き出そうとしていました。
本編
秋の気配が山の端から降りてくる頃。
カフェ「ひだまり珈琲」の新作【峰ヶ原チーズの山キッシュ】は、すっかり町の人気メニューになっていた。
工房で熟成を見ていた隆のもとへ、スマホが震えた。
《今日、キッシュ完売しました。ありがとう。美咲》
短いメッセージなのに、胸の奥がふっと温かくなる。
美咲の筆跡のような、柔らかい文章だった。
「……よかった」
誰もいない熟成庫でつぶやく声が、ひんやりした空気に吸い込まれた。
週末。
納品のためにカフェへ向かうと、カウンター越しに美咲が手を振った。
「隆さん、来てくれたのね」
「納品ついでに、コーヒー飲みに来ました。」
「じゃあ今日の気まぐれブレンド、サービスしちゃう。」
軽い調子の言葉だが、どこか照れくさそうに微笑むその横顔が、隆には眩しかった。
キッシュを焼くオーブンの音、カップを置く陶器の響き、
それらの隙間に流れる小さな沈黙が、いつの間にか心地よく感じられるようになっていた。
「ねえ、隆さん」
美咲がふいにスプーンでコーヒーを混ぜながら言った。
「最近、工房のほうはどう? 大変?」
隆は少しだけ肩の力を抜いた。
「大変です。でも……美咲さんの店で出してもらえるって思うと、頑張れるんですよね。」
美咲はカップのふちを指でなぞり、小さく笑った。
「そっか。……嬉しいな、そういうの。」
たったそれだけ。
だけど隆は、その笑顔を胸の奥で何度も反芻した。
ある日の閉店後。
美咲が「試作があるから」と隆を厨房へ連れてきた。
「サンドイッチの新メニューを考えてるんだけど……
隆さんのチーズ、焼くと香りが立つから、ほら、ちょっと味見してみて。」
そう言って渡されたサンドイッチは、パンに焼き色がつき、チーズがゆっくり流れていた。
乾燥したハーブと一緒に噛むと、鼻の奥まで香りが広がる。
「……うまい……」
感想を言うと、美咲の表情がぱっと明るくなった。
「良かったぁ。隆さんが美味しいって言ってくれたら、もう大丈夫だと思った。」
「あの……僕の味覚、そんなに信頼できます?」
「うん。あなたの“おいしい”って、嘘がない。」
その言葉に、胸の奥に静かな火が灯る。
美咲は気づいているのかいないのか、近い距離のまま笑っている。
隆は少しだけ目を逸らし、心を落ち着かせようとした。
ある夕暮れの日。
カフェを出た隆は、外のベンチでスマホを見ている美咲に気づいた。
「どうかしました?」
「明日の仕入れの確認。……でも、今日はちょっと疲れちゃって。」
夕陽が山の向こうに沈む直前で、町は金色に包まれていた。
美咲の横顔も、少しだけさみしげに見えた。
「座ってもいいですか?」
「どうぞ。あなたのベンチでもあるんだし。」
二人で静かに座る。
遠くで虫の声がして、秋の風がメニュー表を揺らした。
「……移住してきて、後悔してない?」
美咲の声は、いつもよりゆったりしている。
隆は迷わず答えた。
「このカフェがあったから、後悔してません。」
美咲は驚いたように目をあげた。
「そんな……大げさだよ。」
「大げさじゃないです。美咲さんと一緒にメニュー作れて、僕は……本当に良かったと思ってます。」
言い終えた瞬間、空気がすこしだけ変わった。
風がゆるみ、世界が静かになる。
美咲は膝に置いた手を握りしめ、ゆっくりと笑った。
「……ありがとう。そんなふうに言われたの、久しぶり。」
頬がすこし赤い。
でも視線はまっすぐで、どこか嬉しそうだった。
隆は反射的に言葉を重ねようとして、思いとどまった。
まだ、この距離感が壊れたくなかった。
急に近づくより、少しずつ温度を分け合うほうがいい。
二人の間に流れる沈黙は、以前よりずっと柔らかかった。
帰り際、美咲はふと隆に声をかけた。
「あのね、来週の休みに……市場に行くの。
新しい野菜、どれがチーズと合うか見たくて。
もしよかったら、一緒に行かない?」
胸が跳ねた。
デートという言葉は使われていない。
けれど、二人の“距離”を見れば、それに近い何かだと分かる。
「はい。行きます。」
美咲は照れながら笑い、メモ帳を閉じた。
「じゃあ、決まり。」
店から出ると、山の向こうで夜が始まりかけていた。
風がすっと肩を撫でる。
その冷たささえ心地よかった。
——ゆっくりでいい。
——でも確実に、ふたりの距離は近づいている。
隆は工房へ向かう道を歩きながら思った。
この町に来て、チーズを作って、美咲と出会って……
それだけで、自分の人生は静かに変わりつつある。
そして、次の朝陽が昇るとき、
もっとはっきりとその変化を感じられる気がした。

