【7分で読める短編小説】チーズと朝陽3|ゆっくり近づく心と、山の町のあたたかな季節

日常

秋の訪れとともに、隆のチーズを使ったキッシュは町の人気メニューとなり、静かな山の暮らしに嬉しい変化が生まれます。
カフェ「ひだまり珈琲」の美咲との距離も、仕事を通じて少しずつ近づいていく季節。
言葉にしない想いが、香りや味、やわらかな沈黙の中にそっと溶け込んでいきます。
落ち着きたい夜や、しみじみした気分のときに読みたい、やさしい秋色の物語です。

こんなときに読みたい短編です

  • 読了目安:6〜7分
  • 気分:しっとり/あたたかく前向き
  • おすすめ:ゆっくり深まる関係の物語が好きな人、秋の情緒を感じたい人、手仕事と人のつながりに癒されたい人

あらすじ(ネタバレなし)

「峰ヶ原チーズの山キッシュ」が町で評判になり、隆は工房とカフェを行き来する日々を送っています。
美咲から届く短いメッセージや、店内で交わす何気ない会話は、隆の毎日に静かな光を与えていました。
閉店後には一緒に試作をしたり、秋の夕暮れに並んでベンチに座ったりと、二人の距離はゆっくりと縮まっていきます。
美咲がふとこぼす悩みや、隆の素直な言葉が交差することで、ふたりの心には小さなあたたかさが積み重なっていきます。
そして、美咲から「市場に一緒に行かない?」と誘いがかかったとき、隆の胸に芽生えた想いが静かに動き出そうとしていました。

本編

秋の気配が山の端から降りてくる頃。
カフェ「ひだまり珈琲」の新作【峰ヶ原チーズの山キッシュ】は、すっかり町の人気メニューになっていた。

工房で熟成を見ていた隆のもとへ、スマホが震えた。
《今日、キッシュ完売しました。ありがとう。美咲》

短いメッセージなのに、胸の奥がふっと温かくなる。
美咲の筆跡のような、柔らかい文章だった。

「……よかった」

誰もいない熟成庫でつぶやく声が、ひんやりした空気に吸い込まれた。

週末。
納品のためにカフェへ向かうと、カウンター越しに美咲が手を振った。

「隆さん、来てくれたのね」
「納品ついでに、コーヒー飲みに来ました。」

「じゃあ今日の気まぐれブレンド、サービスしちゃう。」

軽い調子の言葉だが、どこか照れくさそうに微笑むその横顔が、隆には眩しかった。

キッシュを焼くオーブンの音、カップを置く陶器の響き、
それらの隙間に流れる小さな沈黙が、いつの間にか心地よく感じられるようになっていた。

「ねえ、隆さん」
美咲がふいにスプーンでコーヒーを混ぜながら言った。

「最近、工房のほうはどう? 大変?」

隆は少しだけ肩の力を抜いた。
「大変です。でも……美咲さんの店で出してもらえるって思うと、頑張れるんですよね。」

美咲はカップのふちを指でなぞり、小さく笑った。
「そっか。……嬉しいな、そういうの。」

たったそれだけ。
だけど隆は、その笑顔を胸の奥で何度も反芻した。

ある日の閉店後。
美咲が「試作があるから」と隆を厨房へ連れてきた。

「サンドイッチの新メニューを考えてるんだけど……
隆さんのチーズ、焼くと香りが立つから、ほら、ちょっと味見してみて。」

そう言って渡されたサンドイッチは、パンに焼き色がつき、チーズがゆっくり流れていた。
乾燥したハーブと一緒に噛むと、鼻の奥まで香りが広がる。

「……うまい……」

感想を言うと、美咲の表情がぱっと明るくなった。
「良かったぁ。隆さんが美味しいって言ってくれたら、もう大丈夫だと思った。」

「あの……僕の味覚、そんなに信頼できます?」
「うん。あなたの“おいしい”って、嘘がない。」

その言葉に、胸の奥に静かな火が灯る。
美咲は気づいているのかいないのか、近い距離のまま笑っている。

隆は少しだけ目を逸らし、心を落ち着かせようとした。

ある夕暮れの日。
カフェを出た隆は、外のベンチでスマホを見ている美咲に気づいた。

「どうかしました?」
「明日の仕入れの確認。……でも、今日はちょっと疲れちゃって。」

夕陽が山の向こうに沈む直前で、町は金色に包まれていた。
美咲の横顔も、少しだけさみしげに見えた。

「座ってもいいですか?」
「どうぞ。あなたのベンチでもあるんだし。」

二人で静かに座る。
遠くで虫の声がして、秋の風がメニュー表を揺らした。

「……移住してきて、後悔してない?」
美咲の声は、いつもよりゆったりしている。

隆は迷わず答えた。
「このカフェがあったから、後悔してません。」

美咲は驚いたように目をあげた。
「そんな……大げさだよ。」

「大げさじゃないです。美咲さんと一緒にメニュー作れて、僕は……本当に良かったと思ってます。」

言い終えた瞬間、空気がすこしだけ変わった。
風がゆるみ、世界が静かになる。

美咲は膝に置いた手を握りしめ、ゆっくりと笑った。
「……ありがとう。そんなふうに言われたの、久しぶり。」

頬がすこし赤い。
でも視線はまっすぐで、どこか嬉しそうだった。

隆は反射的に言葉を重ねようとして、思いとどまった。
まだ、この距離感が壊れたくなかった。
急に近づくより、少しずつ温度を分け合うほうがいい。

二人の間に流れる沈黙は、以前よりずっと柔らかかった。

帰り際、美咲はふと隆に声をかけた。

「あのね、来週の休みに……市場に行くの。
新しい野菜、どれがチーズと合うか見たくて。
もしよかったら、一緒に行かない?」

胸が跳ねた。
デートという言葉は使われていない。
けれど、二人の“距離”を見れば、それに近い何かだと分かる。

「はい。行きます。」

美咲は照れながら笑い、メモ帳を閉じた。
「じゃあ、決まり。」

店から出ると、山の向こうで夜が始まりかけていた。
風がすっと肩を撫でる。
その冷たささえ心地よかった。

——ゆっくりでいい。
——でも確実に、ふたりの距離は近づいている。

隆は工房へ向かう道を歩きながら思った。
この町に来て、チーズを作って、美咲と出会って……
それだけで、自分の人生は静かに変わりつつある。

そして、次の朝陽が昇るとき、
もっとはっきりとその変化を感じられる気がした。

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