町のカフェ「ひだまり珈琲」にチーズが採用された隆の物語は、さらにあたたかく広がっていきます。
静かな山の暮らしの中で、自分の手から生まれる味が誰かに届く喜びが、少しずつ形を持ちはじめます。
料理人の美咲との丁寧なやり取りや、レシピを試行錯誤する時間には“手仕事ならではの幸せ”が感じられます。
仕事の合間やゆっくり過ごしたい夜に、心がやわらかくなる一編としておすすめです。
こんなときに読みたい短編です
- 読了目安:6〜7分
- 気分:あたたかい/前向きになれる
- おすすめ:自分の仕事に迷いがある人、ものづくりが好きな人、誰かとの小さな協働に元気をもらいたい人
あらすじ(ネタバレなし)
「ひだまり珈琲」で隆のチーズがメニューに採用された翌週、店主の美咲は隆を招き、いくつもの試作料理を振る舞います。
シンプルなチーズトーストから、ナッツやはちみつを合わせた小皿、家庭的なオーブン料理まで、その味は隆に新しい自信を与えていきます。
やがて美咲は「この町の名物を作りたい」と提案し、二人は地元の素材とチーズを生かした新メニューの構想を膨らませていきます。
試行錯誤する時間の中で、隆は“手で育てた味”が誰かの創意とつながる心地よさを知り始めます。
そして二人が選んだ一皿が、静かな山の町に小さな変化を生み出そうとしていました。
本編
町のカフェ「ひだまり珈琲」から、隆のチーズが正式にメニューに使われることになった翌週のことだった。
木造のドアを押すと、カラン、と小さな鐘が鳴る。
昼下がりの店内にはやわらかい陽が差し込み、ドリップの湯気が静かに揺れていた。
「隆さん、来てくれたのね」
カウンターに立っていた店主の美咲が、明るい笑顔で迎えてくれた。
歳は隆より少し上に見える。
勝気ではないが、凛とした雰囲気と、料理への確かな自信が滲み出ている人だ。
「試作、してみたの。ちょうどいいところよ」
美咲はテーブルに案内し、三つのプレートを運んできた。
見ただけで、香りだけで、胸が高鳴る。
「まずは、シンプルにね。——チーズトースト」
焼き立てのパンの上で、隆のチーズがとろりと黄金色に広がっていた。
口に運ぶと、“やさしい塩気”と“山のミルクの甘み”がふわりと溶けていく。
「……うまい……」
思わず声が漏れた。
美咲は嬉しそうに笑った。
「あなたのチーズは、余計な味がないの。そこが良いのよ。」
次に出てきたのは、
「はちみつとナッツのカナッペ」。
クラッカーの上に軽く削ったチーズ、そして地元の養蜂家のはちみつが一滴。
噛むと、甘さと塩味がふわりと重なる。
「これは……反則だな」
「でしょう?」
美咲はいたずらっぽく片目をつむった。
最後の一皿は、温かな香りが漂っていた。
「チーズとじゃがいものオーブン焼き」
厚切りのじゃがいもに、チーズがとろりと絡んでいる。
素朴で、どこか懐かしい味だ。
「これ、うちの常連さん全員が好きなタイプよ。
でも隆さんのチーズだと、余計に“家庭料理なのに特別”って感じが出るの。」
隆は皿を見つめ、思わずうなずいた。
美咲がふと真剣な顔になる。
「……ひとつ、作りたいものがあるの」
「作りたいもの?」
「——この町に、隆さんのチーズを使った“名物”を作りたいのよ」
隆は息を呑んだ。
名物。
観光客がわざわざ食べに来る、町の顔になるメニュー。
「でも……僕のチーズ、まだ安定してないですよ。ロットによって味の揺らぎもあるし」
美咲は首を振った。
「揺らぎがあるから、いいのよ。
“工房で育った味”って、そういうものだから。
工業製品と違って、一つずつ違う。そこに物語がある。」
——物語。
その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなった。
「作ろう。隆さんと私の、コラボメニュー。」
美咲はメモ帳を広げ、走り書きのレシピ案を見せてきた。
・チーズを使った“山のキッシュ”
・地元野菜のグリル+チーズディップ
・チーズとハーブのスコーン
・チーズクリームのオムレツサンド
どれも魅力的だったが、隆の目が止まったのはひとつ。
「——この“山のキッシュ”、いいですね」
「そう思った?」
「はい。野菜も卵も、この町のもので作れるし……僕のチーズを一番自然に使えそうです。」
美咲は嬉しそうに頬を緩めた。
「じゃあこれに決まり。作ってみましょう。」
試作は午後から夜まで続いた。
玉ねぎを炒める音。
オーブンの予熱の温風。
チーズを削るたび、ふわりと広がる濃厚な香り。
美咲と隆の会話が、その合間にぽつりぽつりと混ざる。
「営業やめて、後悔してない?」
「後悔は……ないです。大変だけど、手を動かすのが好きなので。」
「うん、わかる。料理も一緒。手を動かせば、心が整う。」
美咲はそう言って、卵液をゆっくり混ぜながら微笑んだ。
焼き上がりのキッシュは、見るからに美しい黄金色だった。
チーズの香りがふわっと立ちのぼり、気持ちまで満たされていく。
「……これ、売れるぞ」
隆は皿を見つめながら言った。
「じゃあ、名前をつけましょう。」
美咲はペンを握る。
「隆さんのチーズの名前、なんていうの?」
「地名をとって、『峰ヶ原(みねがはら)チーズ』にしようと……」
「じゃあ決まりね。」
美咲はメニューの試作紙に、さらりと書いた。
——《峰ヶ原チーズの山キッシュ》
その文字を見た瞬間、隆の胸がぐっと熱くなる。
単なる料理名じゃない。
自分の選んだ生き方を肯定してくれるような言葉だった。
数日後。
「ひだまり珈琲」の黒板メニューに、新しい一行が追加された。
【新作】峰ヶ原チーズの山キッシュ
——この町の“朝と山の香り”を詰め込みました。
初日の午前、常連客が一口食べて驚いたように目を丸くした。
「美味しい……なんだろ、懐かしい味がする」
「これ、あの工房のチーズ? 名前ついたのね!」
「また来るわね、これ食べたくて」
美咲がカウンター越しに、誇らしげに頷いた。
カフェを出る帰り道。
隆は胸の奥がじんわりと暖かくなるのを感じた。
——誰かが美味しいと言ってくれる。
——誰かがまた食べたいと思ってくれる。
その全てが、自分の手で育てたものから生まれている。
山の風が頬を撫でた。
あの朝陽の黄金色が、じんわりと思い出される。
隆は空を見上げ、深く息を吸った。
「よし。次のロットも、いいのを作るか。」
そう呟く声は、どこか自信に満ちていた。
カフェと工房。
山と町。
人と手仕事。
その全部がつながって、ひとつの“町の味”が生まれた瞬間だった。

