夏の夕暮れがゆっくり沈む田舎の風景で、主人公・海翔は不思議な少女アリエと出会います。
都会では味わえない静けさと余白が広がる麦畑で、風と願いの“音”に触れる物語です。
どこか懐かしく、少し切なく、そしてやさしい余韻が残る時間を過ごしたいときにぴったり。
寝る前や、静かに気持ちを落ち着けたい夕方に読みやすい短編です。
こんなときに読みたい短編です
- 読了目安:7分
- 気分:ノスタルジック/切ないけれど心があたたまる
- おすすめ:田舎の夏の記憶を思い出したい人、静かなファンタジーに浸りたい人、誰かを想う気持ちをそっと確かめたい人
あらすじ(ネタバレなし)
祖母の家を訪れた海翔は、帰り道の麦畑で不思議な少女アリエと出会います。
彼女は「麦には願いが宿り、その声が聞こえる」と語り、海翔の前で風の音に耳を澄ませます。
最初は半信半疑だった海翔も、麦の揺れる音の奥に、誰かの思いのような響きを感じるようになります。
滞在中、二人は何度も畑で会い、淡い交流を重ねていきますが、やがて海翔の帰る日が近づいてしまいます。
夕暮れの麦畑で、海翔は心の奥にある“まだ言葉にならない願い”と向き合うことになります。
本編
夏の夕暮れは、都会よりもずっとゆっくり沈んでいく。
祖母の家の縁側から見える麦畑は、風が吹くたびに金色の波をつくり、どこか懐かしい音を響かせていた。
海翔は、祖母に頼まれたお使いの帰り道、麦畑の真ん中を歩いていた。
乾いた土の匂いと、草の中で跳ねる小さな虫の音。
都会では感じられない“夏の余白”が、そこにはあった。
そのとき——。
「ねえ、聞こえる?」
背後から声がした。
海翔は思わず足を止めた。
畑の真ん中、金色の麦の間から、ひょいと誰かが顔を出した。
髪が夕日に透け、麦と同じ色を宿している。
少女だった。年は海翔と同じくらいだが、その瞳はどこか遠い季節を見ているようだった。
「聞こえるでしょ? 麦の声」
「麦……の声?」
少女は嬉しそうに頷いた。
「そう。麦ってね、人の願いをひとつずつ預かって揺れてるんだよ。」
海翔は思わず耳を澄ませた。
すると、風がふわりと吹き、麦が擦れ合う音が耳へ届いた。
——ざわ、ざわ。
けれど、その奥に、小さくて温かい“声”のようなものが混ざって聞こえた。
「がんばって」「会いたい」「忘れないで」
そんな響きが、風に紛れていた気がした。
「僕にも……聞こえるのか?」
「聞こえてるよ。だって、あなたが私を見つけたんだもの。」
少女は胸に手を当てて、にこりと笑った。
「私はアリエ。風に耳を傾けられる人だけに見えるんだって。」
海翔は、自然と息をのんだ。
祖母の家に滞在している間、海翔はアリエと何度も麦畑で会うようになった。
アリエは風が吹くたびに立ち止まり、麦の音を丁寧に聞く。
「いまのは、お母さんに早く会いたいって願い。」
「これは、試験に合格しますようにって。」
「こっちは……秘密。」
秘密の願いを言う時だけ、アリエはいたずらっぽく笑った。
海翔は、願いが麦に宿るという話を最初は冗談だと思っていた。
けれど、彼女と一緒にいると、本当に麦が“誰かの心”を揺らしているように感じるのだった。
夕暮れの金色のなかで、海翔はふと尋ねた。
「アリエには……願いごとはないの?」
アリエは麦の穂を指で撫でながら答えた。
「私はね、人の願いを聞いてるほうが好きなの。自分の願いは……そうだな……風みたいに、まだ決まってない。」
その声はどこか透き通って、すぐに風へ溶けてしまいそうだった。
滞在の終わりが近づいたある日、海翔は妙に胸がざわついていた。
もうすぐ帰らなきゃいけない。
町へ。学校へ。やらなくちゃいけない現実へ。
夕暮れ時、海翔は麦畑へ走った。
アリエはいつもの場所で、風の来る方向を向いて立っていた。
「アリエ……今日が最後かもしれない」
アリエは振り向いた。
その瞳は、夕日に染まりながらも、どこか静かだった。
「知ってるよ。風が教えてくれた。」
沈黙が金色に染まった麦の海を包む。
海翔の胸に何かが込み上げてくる。
「アリエ……僕、まだ言ってない願いがあるんだ。」
アリエはそっと近づいて、海翔の胸のあたりに耳を寄せた。
麦の音を聞くときと同じ姿勢で。
「うん……聞こえるよ。
あなたの願いは、まだ言葉になってないけど……すごくあったかい。」
海翔は思わず目を伏せた。
胸の奥にある願いは、言葉にできるほど単純じゃなかった。
また来たい。
ここにいたい。
アリエともっと話したい。
彼女の笑い声を、もっと聞きたい。
どれが“本当”の願いなのか、まだわからない。
ただひとつだけ、確かなことがあった。
「アリエ……僕、またここへ帰ってくるよ。」
アリエは麦の風に包まれながら、ふわりと微笑んだ。
「それなら、きっと風が道をつくってくれる。
あなたが願うなら——必ずね。」
麦がざわめいた。
まるで“約束”という言葉を風が運んできたようだった。
日が沈むと、アリエの姿は麦の陰に溶けていった。
その消え方は、まるで最初からそこに“いた風景”に戻るだけのようだった。
海翔は麦畑の真ん中に立ち、最後に耳を澄ませる。
——さようなら。
——またおいで。
——待ってるよ。
風の声か、人の願いか、自分の心か。
全部が混ざり合った金色の音が、胸にそっと重なった。
海翔は深く息を吸い、ゆっくりと歩き出した。
“願い”はまだ形にならない。
けれど、金色の麦が揺れるたび、その願いは少しずつ言葉に近づいていく。
夏の終わりの道を歩きながら、海翔は思った。
——また必ず会いに行く。
それがたしかに、自分の“本当の願い”だった。

