毎朝の通勤前、自販機で同じ缶コーヒーを買う——そんなささやかな習慣のなかで、瑞希は思いがけない“誰か”とのつながりを見つけていきます。
たった一本の黒ラベルが、緊張で固くなりがちな朝に、静かなぬくもりを差し込んでくれる物語です。
忙しさの中でも、気持ちがふっと軽くなる瞬間に出会えるかもしれません。
一息つきたい朝や、なんとなく気が重い出勤前におすすめです。
こんなときに読みたい短編です
- 読了目安:5〜6分
- 気分:やわらかいときめき/静かな前向き/日常の小さな癒し
- おすすめ:通勤前に気分を整えたい人、誰かとのさりげない交流に救われた経験がある人、コーヒーの時間を大切にしたい人
あらすじ(ネタバレなし)
営業の重圧でいつも胸が硬くなる朝、瑞希にとって“黒ラベルの微糖コーヒー”は一日の始まりを整えるお守りだった。
ある日、同じ時間に同じ缶を買う男性の存在に気づき、やがて小さな挨拶や言葉を交わすようになる。
雨の日、財布を忘れた瑞希にそっと缶を差し出してくれたことで、二人の距離はさらに近づいていく。
缶を開ける小さな「カシュッ」の音が合図のように重なり、朝の風景がほんの少し優しく変わっていくなか、男性は静かに「週末も会いませんか」と切り出す——。
黒いラベルの缶に宿った、ほろ苦くてやさしい“朝の予感”が描かれる物語です。
本編
駅へ続く歩道橋の下に、小さな自販機がある。
周囲はマンションの陰に紛れて目立たないが、瑞希にとっては「一日のスタート地点」だった。
黒いラベルの微糖コーヒー。
ほろ苦さと控えめな甘さが、眠気と緊張の間をそっと引き離してくれる。
朝の営業先を思い浮かべるたび、胃がぎゅっと縮むことがある。
だけど——コーヒーのプルタブを開ける音が、背中を軽く押してくれた。
カシュッ。
その小さな音から、瑞希の一日は始まっていた。
その男性に気づいたのは、三週間ほど前だった。
自販機の前で、瑞希とまったく同じ黒ラベルの缶コーヒーを買っていた。
黒いスーツ。少し寝癖の残る髪。
年齢は同じくらいに見える。
「あ……どうぞ」
彼は瑞希より半歩ゆずって、購入ボタンを触らせてくれた。
それだけの会話。
なのに、なぜか印象に残った。
翌日も、彼はいた。
その次の日も。
気づけば、毎朝ほぼ同じ時刻に、同じ缶を買っている。
「あの人も、黒ラベルなんだ」
その共通点が、朝の少し沈んだ気持ちを不思議と軽くしていった。
ある雨の日。
傘を閉じながら小走りで自販機に向かうと、彼はすでに缶を二本買っていた。
「おはようございます。……一本、どうですか?」
差し出された缶は、瑞希がいつも買う微糖タイプ。
まるで準備していたかのように。
瑞希は驚いて、目を瞬かせた。
「えっ……いいんですか?」
「今日、財布忘れたっぽかったから」
「……なんでわかったんですか」
「毎朝、鞄を持ち替えてるなって思って。今日は財布入ってなさそうな薄さだったので」
なんだそれ、と笑いそうになった。
ちょっと変わった観察眼。
けれど嫌じゃない。むしろ、こんなふうに自分を見ていた人がいることに驚いた。
「ありがとうございます。じゃあ、今日はごちそうになります」
「僕も、いつも同じの買ってる仲間ですし」
仲間。
その言葉が、ほんの少し胸に落ちた。
翌朝から、二人は自然と声を交わすようになった。
「今日の営業、気が重いです」
「僕は会議で詰められる予定です。お互い、黒ラベルで耐えましょう」
「昨日の雨、帰れました?」
「びしょびしょでした。でも、この缶だけは死守しました」
彼は名前を名乗らなかった。
瑞希も聞かなかった。
けれど、不思議と距離は縮まっていく。
缶を開ける音が、まるで合図みたいだった。
カシュッ、と同時に鳴らして、今日をはじめる。
時々、彼の横顔を見た。
寝癖もあまり直っていないし、ネクタイも少し曲がっている。
でも、真面目で、誠実そうな声。
それだけで、瑞希の朝は前よりやわらかくなっていた。
そしてついに、一言が落ちてきた。
「……もしよかったら、週末の午前にも、ここで会いませんか」
瑞希の心臓がほんの少し跳ねる。
営業でも緊張でもなく、もっと静かな種類のドキッだった。
「週末も……黒ラベル飲むんですか?」
「ええ。家だと味が違って」
「わかります」
ふたりして笑った。
その笑いが、朝の交通音に紛れて消える。
「じゃあ、同じ時間に」
「はい。楽しみにしてます」
電車のホームへ向かう歩幅が、いつもより軽かった。
缶コーヒー片手に、瑞希は気づいた。
——黒ラベルを好きなのは、味だけじゃなくなった。
——それを一緒に飲む“誰か”ができたからだ。
そんな小さな変化が、今日の自分を確かに変えていた。
黒いラベルの缶。
そこには、ほんの少しの苦さと、静かな甘さと……
新しく芽吹いた朝の気配が、たしかに息づいていた。

