42キロの強歩大会に挑む春樹が、限界の中で隣に現れた結月と共に歩くことで、自分の中の小さな強さに気づいていく物語です。
追い越されるばかりだった日々の中で、「できている」と言ってくれる誰かの存在が、こんなにも力になる——そんな優しい実感が胸に残ります。
疲れたとき、あと一歩が出ないとき、そっと背中を押してくれるような短編です。
夕方の休憩時間や、気持ちを立て直したいときにぴったり。
こんなときに読みたい短編です
- 読了目安:7分ほど
- 気分:前向き/やわらかい励まし/青春のまぶしさ
- おすすめ:誰かに並んで歩いてほしいと感じる人、自信をなくしがちな学生さん、弱さを抱えたまま一歩を出したい人
あらすじ(ネタバレなし)
強歩大会の朝、不安に押しつぶされそうになりながら歩き出した春樹。
息は上がり、足は痛み、限界に近づいたそのとき、隣に現れたのは陸上部のエース・結月だった。
淡々と歩く結月は、春樹のペースに合わせながら「できてるよ」と静かに声をかける。
30キロ地点で立ち止まった春樹に、結月が告げた「あと一歩なら出せるでしょ」という言葉が、春樹を再び前へと進ませていく。
夕方の光の下、ふたりは並んでゴールへ向かい——そこで春樹は、“となりで歩く”という温かさが、自分を強くしてくれることに気づくのだった。
本編
強歩大会の朝は、いつもより冷え込んでいた。
まだ春とは名ばかりで、薄曇りの空が校庭をくすませている。
春樹はスタート地点に立ちながら、足元ばかり見ていた。
——42キロ。
数字だけ見ると、もはや“歩く距離”ではない。
「完歩できる気がしない……」
隣で友人が談笑している中、春樹の小さなつぶやきは誰にも届かない。
スタートの号砲が鳴った。
集団は前へと押し出され、春樹は流れに巻き込まれるように歩き始めた。
最初の10キロは、ただ足を前に出すだけで精一杯だった。
息が少しずつ荒くなる。
靴擦れの痛みが増していく。
そんなとき、横にふわりと影が並んだ。
「ペース、悪くないよ」
春樹は驚いて顔を上げた。
そこにいたのは、結月だった。
学年トップの陸上部エース。
淡々と歩き、みんなの憧れで、手が届かないと思っていた存在。
「え、えっと……なんで隣に?」
「ん? 同じクラスだから」
あっさりした答えに言葉を失う。
結月は呼吸も乱さず、リズムよく歩き続けていた。
けれど春樹の歩幅に、わずか合わせてくれている気がした。
「無理しなくていいよ。こんなゆっくりのペース」
「……してないよ。これが私の“会話用ペース”」
そんなペースがあるのか。
でも、彼女の言葉には不思議な安心感があった。
20キロ地点。
春樹は疲労で足が重い。
結月は変わらず淡々と歩く。
「すごいなぁ……結月さん、全然バテない」
「慣れてるからね。でも春樹くん、思ったより強いよ」
「強い? 僕が?」
「うん。ペースがぶれないし、ちゃんと歩いてる」
春樹は耳まで熱くなった。
誰かに“できてる”と言われたことなど、ほとんどなかった。
「……ありがとう」
声が小さすぎて聞こえただろうかと思ったが、
結月は横目でこちらを見て、すっと笑った。
30キロを超えると、足に鉛が巻きついたように重くなる。
ついに春樹は立ち止まった。
「ごめん……もう、ムリかもしれない」
結月も足を止め、春樹の顔をじっと見る。
その瞳は冷たくも厳しくもなく、じんわりと温かかった。
「春樹くん。『ムリ』って言うのはいいよ。でもね」
結月は自分のシューズの先で地面を軽く指し示した。
「あと一歩なら、出せるでしょ?」
「……あと、一歩」
春樹は小さく頷き、一歩前へ踏み出す。
すると、不思議と次の一歩も出た。
「ほら、歩けてる」
「結月さん、なんで僕なんかに……」
「なんか、じゃない。春樹くんでしょ」
その言葉が胸の中心に落ちた。
熱が広がり、足にもう一度力が宿る。
ラスト5キロ。
空が少し明るくなり、風が背中を押す。
結月は以前よりもほんの少し近い距離で歩いていた。
「春樹くん、最後の坂はキツいよ」
「うん。でも……となりに結月さんがいるから、なんか大丈夫な気がする」
結月は顔をそむけるように笑った。
「そんなこと言われたら、歩くしかなくなるじゃん」
ふたりの笑い声が、疲労の中で小さく混ざる。
そして、ゴールのアーチが見えた。
春樹は息を切らしながらも、結月と同じ歩幅で前へ進む。
最後の数十メートル、ふたりは並んだまま歩いた。
「……ありがとう」
「こちらこそ」
ゴールラインを越えた瞬間、春樹の膝が少し震えた。
結月がそっと腕を支えてくれる。
「やっぱり、強いじゃん」
「いや……結月さんが“となりで歩いて”くれたからだよ」
結月は照れたように視線を落とす。
「じゃあさ、また“となり”歩く?」
春樹は胸の奥が温かくなるのを感じた。
強歩大会は終わった。
でも、まだ“これから”がある。
「……うん。歩きたい」
ふたりはゆっくり歩き出した。
今度は、ゴールではなく——
これから始まる、同じ道のために。

