満月の光に揺れる海辺で、記憶の欠片を求める青年・アオと、記憶を持たない人魚との静かな対話が紡がれる物語です。
忘れたくないものを探す揺らぎと、“いま”を抱きしめて生きる強さが、月光のようにやわらかく胸に届きます。
幻想的な情景と静かな心の動きが重なり、読み終えたあとに深い余韻が残る一篇です。
夜のひとり時間や、少し心を落ち着かせたいときにそっと寄り添います。
こんなときに読みたい短編です
- 読了目安:7分ほど
- 気分:幻想的/切ないけれど前向き/静かな癒し
- おすすめ:記憶や喪失をテーマにした物語が好きな人、夜の海や月の描写に惹かれる人、心の中にある小さな願いを確かめたい人
あらすじ(ネタバレなし)
満月の夜、アオは「海の底に咲く花が記憶を取り戻す」という伝承を頼りに無人島へ向かう。
そこで出会ったのは、人かどうかもわからない“記憶のない人魚”。
過去を探すアオと、今だけを抱きしめて生きる人魚——対照的な二つの存在は、静かな会話の中で互いの心に触れていく。
やがてアオは、自分が取り戻したい記憶の意味と、“いまの自分”の中にも咲き始めている想いに気づき始める。
月光が海に揺れる夜、アオはそっと未来へ向けて歩き出すのだった。
本編
満潮が静かに島を包む夜。
灯台も人影もない、地図から抜け落ちたような無人島に、アオは立っていた。
足元には濡れた砂と、波の残した白い線。
空には満月。
その光は海面に伸び、銀色の橋を作っている。
「月の花……海にだけ咲く花……」
アオは小さく呟いた。
伝承によれば、満月の夜、海の底に一輪だけ現れるという。
触れた者は、失われた記憶をひとつ取り戻す。
アオには、どうしても思い出したい何かがあった。
心の奥で、いつも波のように押し寄せては消える感覚。
大切だったのに抜け落ちた欠片。
だが、波は答えない。
ただ、月光を細かく砕いて揺らすばかりだった。
ふと、水面がふわりと膨らんだ。
泡が立ち、月光が深い碧へと溶け込む。
「……あなた、探しているの?」
声だった。
風でも波でもない、人の声。
アオが振り返ると——
海と空の境界から、人影が現れた。
長い髪が波とともに揺れ、瞳は夜そのものの色をしている。
「人……?」
「人かどうかも、私は知らない」
少女のようにも、青年のようにも聞こえる声。
白い肌は月光を溶かし、身体の先は、ゆっくり水へほどけていく。
人の足ではない。尾ひれでもない。
夜と海が形をとったような“人魚”。
「あなたは?」
「アオ。……記憶を取り戻したいんだ」
人魚は瞬きをした。
「わたしは記憶を持たない。名前もない。
だから、何かを取り戻す気持ちが、わからないの」
「忘れたまま、怖くないのか」
「怖さも、忘れたのだと思う」
その声は、波の音より静かだった。
空虚ではなく、深い夜の底に落ち着いた音。
アオは息を呑んだ。
その人魚は、どこか自分に似ている気がした。
形は違えど、持たないものを抱えている。
「ねえ、アオ。
昔の自分を知ることは、そんなに大事?」
月光が海を切り、アオの影が伸びる。
「大事だと思う。
……誰かと笑ってた気がするんだ。
忘れたくない人が、いた気がする」
「でも、その誰かじゃなくて、今のあなたがここにいる」
人魚は砂へ触れた。
指先が月の光をすくうみたいに震える。
「わたしは、記憶がないから……“今”しか持ってない。
だから思うの。
今の想いを抱けるなら、過去がなくても生きられるって」
アオは胸がざわめいた。
その言葉は、優しく響きながら、どこか痛かった。
「でも、取り戻したいものがある。
その“ひとつ”が、今の俺を作ると思うんだ」
人魚は空を見上げた。
そこには澄んだ月。
海の底で咲くらしい花と同じ光。
「なら、探すといい。
月の花は、願いが水底に沈む場所に咲く」
「沈む……?」
「忘れたくないものほど、沈むものよ」
波の音が変わった。
静けさの中に、微かな揺らぎ。
海の底——
月の花が、そこにあるのかもしれない。
アオは海へ足を踏みだした。
そっと、水面が膝を包む。
「アオ」
人魚の声が呼び止める。
「思い出してから、あなたはどうするの?」
アオは振り返り、月の光を背にした。
「わからない。
でも、思い出せたら……ちゃんと生きたい」
人魚は微笑んだ。
揺れる波間に、その微笑みは溶けて消えそうだった。
「それなら、もう咲いてるのかもね。
あなたの中に」
アオは息をのむ。
胸があたたかく、苦しく、懐かしかった。
人魚がそっと近づく。
「あなたが探す花が、本当に記憶を咲かすものだといい」
「君は……何を願う?」
「わたしは……“いま”を生きる願いを持つ。
明日を知らなくても、今日を抱きしめる」
夜風がふわりと吹き、海面が揺れた。
月が散り、まるで海の底に咲く花のように光が踊る。
アオはその光景を胸に刻んだ。
記憶が戻るかどうかは、まだわからない。
けれど——
「ありがとう」
人魚に向けて、そっと言う。
その言葉自体が、未来へ向けた小さな種だった。
アオは月の道の先へ歩き出す。
人魚は波の中へと溶ける。
海はただ静かに、ふたりを包んだ。
夜の底で、ひとつ、光が揺れた。
それが記憶か、いま芽吹いた願いなのか。
まだ誰も知らない。
けれど海はやさしく、月は静かに咲き続けていた。

