暴力の影に怯える少女・春菜と、その声の震えの奥にある“救いを求める温度”を見抜いた刑事・相沢真理子。
曇天のように重い家庭環境の中で、少女が発する小さなSOSを真理子が丁寧に拾い上げ、正しい方向へ導いていく姿が胸を打ちます。
ただ事件を解決するだけでなく、“人を守る”という職務の核心にそっと触れるような深い余韻のある短編です。
静かな夜、心に寄り添う物語を読みたいときにぴったりです。
こんなときに読みたい短編です
- 読了目安:7分ほど
- 気分:張りつめた優しさ/確かな救い/静かな勇気
- おすすめ:人の痛みに寄り添う物語が好きな人、ヒューマンドラマとしての捜査ものを味わいたい人、誰かの“声の震え”に敏感でありたいと感じる人
あらすじ(ネタバレなし)
暴行事件の証言者となった少女・春菜。その言葉の端々に“誰かをかばう”影を感じ取った刑事・相沢真理子は、彼女にそっと寄り添いながら真実へ近づこうとする。
翌日、相談室で明らかになる春菜の家庭の事情。かすかな痣、沈黙、そして「助けを呼びたい」という小さな頷き。
真理子は生活安全課と連携し、慎重かつ迅速に家庭へ向かうが、そこで待っていたのは崩れかけた家族の姿だった。
少女がようやく差し伸べた手を、確かな“温度”で受け止める真理子。
手紙に綴られた春菜の小さな未来の声を胸に、真理子は次の“守るべき場所”へ静かに歩み出す。
本編
翌日、灰色の雲が低く垂れこめる朝。
相沢真理子は、署内の相談室で資料を広げていた。
少女——名は春菜。
小さな体、かすかな震え、肩口の見えない痣。
机の向こうで、生活安全課の刑事・高橋が重い声を漏らす。
「家庭内暴力の疑い……父親は無職、母親はパート。近所からの通報歴は0か」
「0なのが逆に気になる」
真理子は指で資料の端を押しながら言う。
「声を上げられない家庭ほど、深いところで壊れていることがある」
その時、ドアがノックされ、保護担当の婦警が顔を出した。
「春菜ちゃん、来ています。……少し怖がっています」
真理子は深呼吸し、椅子を立った。
乱暴な言葉ではなく、強さだけでもなく。
いま必要なのは——寄り添う温度。
春菜は、昨日よりもさらに小さく見えた。
袖が手を覆い、視線はずっと床に落ちている。
「来てくれてありがとう」
真理子はそう言い、距離を詰めずに椅子へ腰を下ろす。
「今日は、春菜ちゃんが怖いと思うことを——言えるところまででいい。全部じゃなくていいから」
春菜の肩がかすかに揺れる。
沈黙がしばらく続き、やがて、細い声。
「……お父さん、最近仕事なくて……ずっと家にいて……お母さんも、怖がってて……」
「暴力は?」
春菜は、そっと袖をめくった。
淡い紫色の痣。ひとつ、ふたつ。
真理子の胸に熱が走った。だが表情は変えない。
「あなたは悪くない」
春菜の唇が震えた。
「ねえ、春菜ちゃん。ひとつ聞かせて」
真理子は優しく問いかける。
「——助けを、呼びたい?」
春菜は、ぎゅっと拳を握った。
そして、涙をこぼしながら、小さく頷いた。
動きは速かった。
高橋との合同で家庭訪問。児相にも連携。
法的手続きの準備を進めながら、真理子は心を研ぎ澄ませる。
家の前に立つと、曇天がさらに重く感じられた。
玄関の扉は薄く歪み、ポストには未開封の通知が溜まっている。
「警察です、開けてください」
高橋が声を張る。
静寂——
だが、室内から荒い息と足音。
ガチャッ
扉が乱暴に開かれ、剣呑な眼光の男が顔を出した。
「なんだよ……また支援とか言うのか? うちは普通だ!」
真理子は視線をそらさず、一歩前に出る。
「春菜さんの確認と、家庭状況の確認です」
男の顔色が変わり、舌打ちした。
「出かけてる。帰れ」
——嘘だ。
家の奥から、微かな震えと、布の擦れる音。
真理子は目で高橋に合図。
高橋は即座に法的権限の手続きを確認し、支援員が扉脇へ回り込む。
「お父さん、春菜ちゃんは怖がっています」
真理子の声は静かに落ち着いていた。
「いまは、私たちが一緒にいるほうが安全です」
男は拳を震わせる。怒りか、不安か、両方だ。
「俺だって……俺だって好きで……!」
その叫びの奥に、壊れた誇りと疲弊が透けた。
真理子は冷たさではなく、確信で言葉を返した。
「暴力は、愛の言い訳にはなりません」
沈黙。
やがて、男は視線を落とし、手がほどけた。
その瞬間、奥から小声。
「……まま……」
春菜だった。
母親に抱えられ、部屋の影に立っている。
母の頬にも、薄い痣。
真理子はゆっくり膝をついた。
「春菜ちゃん、迎えに来たよ」
手を伸ばすと、春菜は一歩、そしてもう一歩。
小さな手が、真理子の手にふれた。
その手は震えていたが、温かかった。
安全確保後、少女と母は保護施設へ。
父親は事情聴取へと連れて行かれる。
見送りながら、高橋がつぶやいた。
「感情に流されると危ない場面だったな」
真理子は小さく微笑む。
「流されたんじゃない。寄り添っただけ」
「違いがどこにあるんです?」
「見失わなかった、自分の“温度”ね」
高橋は苦笑し、ポケットから缶コーヒーを差し出す。
「……たしかに。あなた、怖いけど、優しいですよ」
「怖いのは仕事。優しいのは役目」
真理子は缶を受け取り、空を見上げる。
曇り空に、光の帯がうっすら差していた。
数日後、春菜から短い手紙が届いた。
《ありがとう。わたし、ちゃんと眠れるようになりました。
また、会えたらいいな。》
ぎこちない文字。
でも、ひと文字ひと文字に、未来の香りがある。
真理子はそっと手紙を胸元にしまい、立ち上がる。
新しい案件が待っている。
守るべき声が、またどこかで震えている。
ヒールの音が廊下に響く。
背筋にあるのは、刑事の誇りと——人としての体温。
「さあ、次の場所へ」
真理子は歩き出した。
その足取りは、迷いなく、静かで、強かった。

