記憶の売買が当たり前になった未来で、「記憶を手放さない」と宣言した青年・譲を描く物語です。
痛みも失敗も含めて“自分”を成すものだと信じ、世の流れに逆らう彼の姿は、いつの間にか周囲の心を揺らし始めます。
便利だけれど、どこか大事な何かを置き去りにしそうな世界の中で、記憶と向き合うことの意味をそっと問いかけてくれます。
夕方や休日の読書時間に、静かに自分の心と向き合いたいときにおすすめの短編です。
こんなときに読みたい短編です
- 読了目安:7分ほど
- 気分:前向きだけど少し切ない/静かな勇気/思索的
- おすすめ:過去の自分を受け入れたい人、失敗や後悔に向き合う途中の人、“記憶”というテーマに惹かれる人
あらすじ(ネタバレなし)
記憶の売買が合法化されて十年。人々は痛みを手放し、成功の記憶さえ購入できる時代になっていた。
そんな中、「自分の記憶を一切売らない」と表明した大学生・神木譲は、社会から理想主義と揶揄されながらも、自らの選択を貫いていた。
ある日、記憶仲介士・泉と出会った譲は、彼女の問いを受けながらも“忘れない生き方”の理由を静かに語る。
その姿に揺れた泉は、初めて自分の失敗の記憶を売らずに過ごしてみることを選ぶ。
やがて、街のあちこちで小さな変化が生まれ、譲は記憶がもつ力と、それを抱えながら歩く美しさをあらためて見つめていくのだった。
本編
記憶の売買が合法化されて十年。
街中には「記憶交換所」が並び、まるでATMのように人々が順番を待つ。
「失恋の三日分、なら上限で買い取れますね」
「初恋の告白体験をください。あ、でも恥ずかしいのは嫌なんで、成功パターンで」
笑いながら取引を済ませる人々。
“心の整理”も“成長のショートカット”も、いまはサービスの一部だった。
そんな社会で、ひとりの若者が注目を集めた。
「俺は記憶を売らずに生きる」
神木譲(ゆずる)、21歳。
記者会見の壇上で、彼は堂々と言い切った。
会場がざわつく。
政治家でも芸能人でもない、ただの大学生。
だが、たったひとことで時代の流れに逆らう存在となった。
「辛い記憶も、大切だと思うんです」
「それは理想論だ」「実利を知らないだけだ」
批判の声は大きかった。
けれど、譲は画面の向こうの喧騒に肩をすくめ、静かに歩き続けた。
「君、本当に売らないの?」
取引所の近くで、譲は声をかけられた。
振り向くと、青色のスーツを着た女性が立っていた。
名札には“記憶仲介士”とある。
「ええ、売りません」
「理解できないな。嫌な記憶を手放せば楽になるのに」
「忘れたくないんです」
「トラウマも?」
「はい。そこに、自分がいますから」
彼女は眉をひそめる。
「じゃあ、購入は? 幸せな記憶や、誰かの成功体験……憧れるでしょう」
「いいえ。自分で掴みたい」
記憶仲介士は小さくため息をついた。
「……理想主義者ね」
その夜、譲は古びたアパートの部屋で、自分の手を見つめていた。
——正しいのか?
失恋の痛みも、進学に失敗した悔しさも。
友人と喧嘩して孤独を味わった日々も。
全部、胸を刺す。
世の中の半分は、過去を処理して軽くなる道を選んだ。
それなのに、自分は苦しみを抱えたままだ。
ベッドに倒れ込んだ時、通知音が鳴った。
SNSのメッセージ。
《あなたの宣言、励みになりました》
《自分の失敗の記憶、全部売ろうと思ってた。でも考え直します》
ほんの数行の文字。
それが、不思議と胸を温めた。
翌朝、街を歩くと、見覚えのある顔があった。
昨日の記憶仲介士だ。
「また会ったわね」
「奇遇ですね」
彼女はコーヒーを手に、苦笑した。
「昨日、あなたの話が頭から離れなかったの。だから試してみた」
「何をですか?」
「自分の“失敗の記憶”を売らずに寝てみたの。
……夜中に泣いたわ。忘れればよかったのかって思った。
でも、今朝ちょっとだけ笑えた。なんでかな」
譲はゆっくり言葉を紡ぐ。
「失敗も、時間がたてば思い出になるからです」
「……やっぱり変な人」
「よく言われます」
彼女は笑った。
清々しい、泣き笑いみたいな顔で。
「ねえ、あなたの名前、なんて言うの?」
「神木 譲です」
「私は泉。……また話してくれる?」
譲は頷いた。
ふたりはベンチに腰掛け、記憶について話した。
歩く人々の手には、今日も“取引済み”の紙袋。
しかし、通りすぎる学生が耳元でささやいた。
「俺、もう少しだけ頑張ってみる」
会社員が小さくつぶやいた。
「全部消す前に、もう一度向き合おうかな」
世界がほんの少し揺れた気がした。
譲は空を見上げる。
雲がゆっくりと形を変える。
記憶のように——消えるようで、どこかに残る。
「全部覚えている人生は苦しいですよ」
「でも?」
「全部覚えている人生は、美しいです」
風が、遠くで笑ったような気がした。

