【5分で読める短編小説】はじめの一歩|止まっていた心がそっと動き出す瞬間の物語

ドラマ

上京して間もない主人公・沙羅が、ふとした再会をきっかけに胸の奥へしまい込んでいた思いを見つめ直す物語です。
新しい生活に慣れるまでの不安や、昔の自分との距離に揺れる気持ちが、春の冷たい風の中で静かに描かれます。
仕事終わりの電車待ちや、休日の朝にゆっくり読んで気持ちを整えたいときにぴったりです。
前に進む勇気をそっと後押ししてくれるような、やさしい余韻の短編です。

こんなときに読みたい短編です

  • 読了目安:5分ほど
  • 気分:前向き/少し切ないけれど温かい
  • おすすめ:新生活に不安を抱える人、昔の夢を思い出したい人、何かを再開したいと感じている人

あらすじ(ネタバレなし)

春の午後、沙羅は真新しいスニーカーを履いて駅へ向かいます。
慣れない仕事や新しい街に戸惑いながらも、どこか心に空白を抱えていた彼女。
駅のホームで、高校時代に共に走っていた友人・恵と偶然再会し、忘れかけていた「走ること」への気持ちが揺れ動きます。
恵の変わらないまっすぐさに触れた沙羅は、自分が本当に置き去りにしていたものに気づき始めます。
新しい風が吹き抜けるホームで、小さな変化が静かに心を満たしていくのでした。

本編

春の風がまだ冷たい午後、沙羅は紙袋を抱えて駅へ向かっていた。
中には真っ白なスニーカー。
新生活に合わせて買ったものだが、履くのは明日ではない。
店を出てすぐ、我慢できずに履き替えてしまった。

「歩きやすい……」
小さくつぶやきながら歩くと、靴底がまだ硬く、キュッと心地よい音を立てた。

上京して三週間。
仕事の覚え方、言葉のスピード、人の多さ。
毎日、知らない世界を全力で追いかけている。
それはまるで、かつてトラックで息を切らせていたときの感覚にどこか似ていた。

けれど今は、胸の奥に小さな空白がある。
——もう、走ってはいない。
それを自覚するたび、靴ひもがほどけたみたいに心がゆるむ。

ホームに降りると、人の流れが一瞬途切れた。
次の電車まで数分。
沙羅は小さく伸びをして、ホームの端に視線を向けた。

そのとき——。

「あれ、沙羅?」

振り返ると、息を弾ませた女性がこちらへ近づいてきた。
黒髪をひとつに結び、肩からスポーツバッグを提げている。
その姿勢、その歩幅。見覚えがあった。

「……恵?」
「うそ、久しぶり!」

高校の陸上部で、いつも前を走っていた友人。
今も瞳はまっすぐで、汗をまとった光がどこか誇らしげだった。

「仕事帰り?」
「うん。沙羅は?」
「ランニングの帰り」
恵は笑ってバッグを叩いた。

その一言に、胸の奥の空白がきゅっと縮まる。

「まだ走ってるんだね」
「走るしかできないからさ。沙羅は?」
「わたしは……もう走ってない」

言った瞬間、自分の声が少しだけ小さく聞こえた。

恵は優しい目で沙羅の足元を見る。
「その靴、走れそうじゃん」
「これ? 通勤用に買っただけだよ」
「それでも、走れる靴だよ」

電車が風を切って近づいてくる音がした。
ホームの空気がざわめく。

「沙羅はさ、走るの好きだったよね」
「好き……だったけど」
「やめたくてやめたの?」

沙羅は、答えられなかった。
いつの間にか、忙しさのせいにしていた。
環境の変化に流されていただけなのに。

電車がホームに滑り込む。
恵は乗り口へ向かいながら、ふと振り返った。

「また、走ろ。ゆっくりでいいから」

その言葉は風よりも静かで、確かだった。
扉が閉まるまでの数秒、ふたりは目を合わせたまま笑った。

電車が動き出す。
恵の姿が遠ざかり、ホームに静けさが戻る。

沙羅は視線を下げ、スニーカーの靴ひもをそっと引き締めた。
小さく結び直す。
もうほどけないように、ゆっくり確かに。

——走ることをやめたんじゃない。止まっていただけ。

胸の奥の空白に、小さな息が宿る。

ホームの端から少しだけ後ろに下がり、沙羅は足を前に出した。
一歩。
電車の風がまだ残るホームで、ふわりと体が軽くなる。

ゆっくり歩き出すと、スニーカーが再びキュッと鳴いた。
その音が、スタートの合図みたいに聞こえる。

「明日、早く起きてみようかな」

誰に聞かせるでもなく呟いた声が、春の空気に溶けた。

まだ何も始まっていない。
けれど、いま確かに心が動いた。

はじめの一歩は、こんなにも静かで、やさしい。

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