昼下がりの光に包まれた畳の部屋で、父と幼い息子が寄り添う静かな一日を描いた物語です。
忙しさから少し距離を置いた主人公が、ゆっくりと流れる午後の時間の中で“父”としての自分を確かめていきます。
穏やかで、どこか胸があたたまる気分になりたいときにぴったりの短編です。
通勤前のひと息や、寝る前のリラックスタイムにも心地よく寄り添ってくれます。
こんなときに読みたい短編です
- 読了目安:5分ほど
- 気分:やさしい/しみじみ温かい/静かな余韻
- おすすめ:育児の合間に深呼吸したい親御さん、家族の時間を大切にしたい人、日常の尊さを感じたい人
あらすじ(ネタバレなし)
昼下がり、悠斗は息子・晴と畳の部屋で静かな時間を過ごしています。
絵本を読みながら、やがて眠りへと落ちていく晴の小さな仕草に、悠斗は日常のあたたかさを噛みしめます。
仕事の世界から一歩離れた今、父としての時間がどれほど大切で愛おしいものかを改めて感じるのでした。
外から聞こえる子どもたちの声に、少し先の未来がふと胸に浮かびます。
そして、寄り添う寝息のリズムに身を預けながら、悠斗も静かな午後の夢へと入っていきます。
本編
昼下がりの光が、薄いカーテンを通して部屋に広がる。
暖かくて、静かで、ゆっくりと時間が流れる午後二時。
悠斗は、いつものように畳の上に小さな布団を敷いた。
隣には息子の晴(はる)が、まだ指先に丸みを残した手で絵本をめくっている。
「いぬさん、わんわん」
晴が指さす先には、ふわふわの子犬が笑っているページ。
「そうだね。わんわんだ」
悠斗は優しく声を添える。
声のトーンが自然と低く、ゆっくりになるのは、この部屋の空気のせいだろうか。
仕事をしていた頃は、電話の音に脈拍が跳ね上がり、資料の締切に合わせて呼吸を速めていた。
いま、ここでは、呼吸の音さえ柔らかい。
ページをめくる音が、やわらかくポンと響いた。
「ねんね、する?」
晴が、まだ言葉になりきらない声でつぶやく。
「うん、ねんねしようね」
晴をそっと横に寝かせると、ことん、と小さな頭が枕に落ちた。
両手をぱっ、と広げて、父の胸に触れようとする。
悠斗は笑いながら自分も横になり、その手を包む。
ちいさな指が、ぎゅ、と絡んだ。
まだ頼りなくて、でも確かにそこに生きている温度。
外では、遠くの車の音がかすかに響く。
この部屋は世界からひとつ切り離されたみたいで、ふたりだけの時間が漂っている。
「晴、眠れる?」
返事はない。
ただ、ふにゃ、と小さな息。
まぶたがゆっくり落ちて、まつ毛が頬に影を落とす。
やがて、ちいさな寝息が規則正しく響き出した。
すぅ、すぅ。
まるで、世界が優しく呼吸しているみたいだ。
悠斗は天井を見つめる。
社会には、戻る日が必ずくる。
会議室の空気、メールの山、成果を求められる日々。
そこから少し距離を置いて、ここで“父”という名前の時間を過ごしている。
もしかしたら、仕事の世界ではもう少しだけ不器用な存在になってしまっているかもしれない。
タイピングよりも、絵本をめくる手のほうが馴染むようになった。
数字を追うより、寝息のリズムに寄り添うほうが上手くなった。
でも——。
この時間を手放す理由は、ひとつもない。
晴がほんの少し寝返りする。
その拍子に、握っていた指がきゅっと強くなる。
「……大丈夫。そばにいるよ」
誰に聞かせるでもなく、小声でつぶやく。
ふと、窓の外から子どもたちの笑い声が届いた。
学校帰りだろう。
未来の晴の姿を少しだけ想像して、胸があたたかくなる。
いつかこの手を離して、勝手に走っていく日がくる。
そのとき、今日のことは覚えていないかもしれない。
でも、覚えていればいい。
自分が父になっていく音が、確かにあったことを。
静かな午睡の部屋。
柔らかい息の音。
隣に横たわる、小さな命。
すぅ、すぅ。
そのたびに、心が澄んでいく。
何も起きない午後。
けれど、その「何も」が、とてつもなく尊い。
悠斗は目を閉じた。
晴の寝息に合わせて、ゆっくりと呼吸をする。
そして、そっと指先を握り返しながら、同じ夢の入口へと落ちていった。
ふたり並んだ寝息が、畳の部屋にやさしく響いている。

