【7分で読める短編小説】湯気のむこうに|家族の距離がそっと近づく冬の日の食卓物語

ドラマ

冬の午後、実家の台所に広がる湯気とだしの香り。
久しぶりに揃った家族は、どこかぎこちない空気をまといながら同じ鍋を囲みます。
言いそびれたことや心の距離が、温かな湯気にゆっくり溶けていくような静かな時間が流れます。
寒い日に、心まで温められたいときに読みたくなる短編です。

こんなときに読みたい短編です

  • 読了目安:7分
  • 気分:しみじみ温かい/家族のつながりを感じたい
  • おすすめ:実家の味がふと恋しくなる人、家族と向き合うきっかけを探している人、じんわり心がほぐれる物語を求めている人

あらすじ(ネタバレなし)

久しぶりに家族がそろった冬の実家。
鍋の湯気が立ちのぼるなか、父、美優、翔太のぎこちない距離感に、祖母の温かな笑顔だけが静かに寄り添います。
沈黙が続く食卓で、ふとこぼれたひと言をきっかけに、それぞれが胸の奥にしまっていた思いが少しずつ顔を出し始めます。
翔太の進路のこと、美優の迷い、父の不器用な優しさ——湯気に包まれる食卓で、家族の声がやっと重なっていきます。
穏やかな時間の中で、しばらく言葉にできなかった気持ちが、そっと形を帯び始める物語です。

本編

冬の午後、曇り空はまだ夕方にもなっていないのに薄暗かった。
実家の台所は、窓の外の寒さと反対に、しんとした温かさで満ちていた。
鍋から立ち上る湯気が天井にふんわりと広がり、だしの香りが鼻をくすぐる。

「久しぶりね、みんな揃うの」
祖母が湯気をかきわけるようにして笑う。

テーブルを囲んだ家族は、少し居心地悪そうに箸を持った。
父はコートを脱ぎきれず、腕時計を何度も見ている。
弟の翔太はイヤホンを片方だけ外し、スマホをテーブルの下に隠しているつもりだが、光がちらちらと漏れている。
そして、姉の美優は、久しぶりの帰省に気後れしたように俯いていた。

「よし、熱いぞ。はふはふ言いながら食え」
祖母が嬉しそうにお玉で大根を救い、器に入れていく。

沈黙の時間だけが、なぜかゆっくり流れた。
湯気が家族の境界線を曖昧にしていく。

「……父さん、仕事は?」
美優が恐る恐る声を出した。

「相変わらずだ」
それだけ言って湯気の向こうに視線をそらす父。
けれど、大根をかじると目を丸くした。
「……うまいな、これ」

祖母がにんまりした。
「当たり前よ。四日煮込んだもの」

翔太が無言で卵を手に取り、ひとくち噛む。
あつ、と顔をしかめながらも、そのままかじりついた。
「これ……前よりしみてる」

「当たり前よ。四日煮込んだんだから」
祖母が同じフレーズを繰り返すと、翔太がふっと笑った。

その笑いが、テーブルの空気を少しだけ和らげた。

「……父さんさ」
翔太が口を開いた。
「この前、学校のこと言ったとき、ちゃんと聞いてた?」

父は驚いたように息を止めた。
「聞いてたさ。ただ……」
言葉が続かない。

美優がそっと父の代わりに言う。
「忙しかったんだよね。でも翔太、伝えたかったんだよ」

翔太は、卵を見つめたまま黙る。
「……別に、いいよ。今日言うから」

その言葉の奥に、あきらめと、少しの勇気が混ざっていた。

父はゆっくり背筋を伸ばした。
「……悪かった。ちゃんと聞く。言ってくれ」

湯気の中で、家族の視線がやっとひとつに集まる。

「俺、来年、農業の専門に行きたい。都会いくより、ここでやりたいことある」

一瞬、静寂。
外の風が窓を揺らした。

「……いいじゃねえか」
父の声は驚くほど優しかった。
「自分で選べるのは、幸せなことだ」

美優は、胸の奥がじんと温かくなるのを感じた。
自分だって、遠慮しながら生きてきた。
家族に迷惑をかけたくなくて、相談もできなくて。

「……私も、今の仕事、辞めようかなって思ってる」
ぽつりと漏れる。
「もう少し、こっちにも帰ってきたい」

父と翔太が同時に顔をあげた。
祖母は「そうかい」とだけ言い、にこりと笑った。

「家族ってのはね、腰を落ち着けて湯気に包まれれば、また近くなるもんだよ」

大根の中に染み込んだだしのように、言葉がじんわり広がる。

父が箸でこんにゃくを掴み損ねて笑った。
翔太もつられて笑う。
美優は涙がこぼれそうになり、急いで湯気に顔を隠した。

鍋の中で、具材たちが静かに揺れている。
窓の外では冷たい風が吹いているのに、ここだけは春みたいに温かかった。

湯気のむこうで、言葉にならない思いが、ゆっくり溶け合っていった。

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