【7分で読める短編小説】田んぼのリフレイン|旅の途中で見つける“帰りたくなる場所”の物語

日常

道に迷った先で思いがけず田んぼ仕事を手伝うことになったタクト。
都会のスピードとは違う、風や水の音で時間を知るような静かな日々が始まります。
季節の移ろいと人のやさしさに触れながら、彼の心に少しずつ“帰りたい場所”が芽生えていく物語です。
疲れた気持ちをゆるめたい夕暮れ時や、旅に出たくなる瞬間に読んでほしい短編です。

こんなときに読みたい短編です

  • 読了目安:7分
  • 気分:のどか/心がゆっくり整っていく
  • おすすめ:自然の音に癒やされたい人、旅の途中での出会いに弱い人、都会の喧騒からふと距離を置きたくなる人

あらすじ(ネタバレなし)

山道でバイクが動かなくなり、偶然立ち寄った村で田んぼ仕事を手伝うことになったタクト。
老人に導かれるように、朝露の冷たさや風の匂い、子どもたちの帰る声など、忘れていた“ゆっくり流れる時間”を思い出していきます。
日々が積み重なるほど、都会とは違う穏やかなリズムが心に染み込み、タクトは自分の旅の意味を見つめ直し始めます。
バイクの修理が終わり再び走り出す日、彼の胸には別れの寂しさと、新しく芽生えた想いが混ざっていました。
そしてタクトは気づきます——旅の途中で、帰りたくなる場所をひとつ見つけたのだと。

本編

バイクのエンジンが、山の中で息を切らした。
地図にも載っていない細い道を進んだせいだ。標識も、コンビニもない。
代わりに、風の音と虫の声が混ざり合い、どこか懐かしい匂いがした。

タクトはヘルメットを脱ぎ、額の汗をぬぐった。
田んぼの向こうに、麦わら帽子の老人がいた。
「すみませーん、このあたり、どこか町までの道ありますか?」
老人は振り向いて、穏やかに笑った。
「町? ここを下ればすぐ……だけど、バイクはしばらく無理そうだな」

案の定、修理には時間がかかるらしい。
「じゃあ、せっかくだ。少し手伝っていきなさい」
そう言われ、タクトは流れで田んぼの手伝いをすることになった。
「一週間だけ、ですけど」
「一週間もあれば、季節が変わる音が聞こえるさ」

朝。
靴底に冷たい泥の感触。
指の隙間をすり抜ける水の温度。
露が光り、遠くで鶏が鳴いた。
タクトは、バイクのエンジン音ではなく、心臓の鼓動で時間を知った。

昼。
汗をぬぐいながら見上げると、雲の切れ間から陽が射していた。
案山子が風に揺れ、まるで挨拶をしているようだった。
「こいつも、毎年ここで見張り役だ。黙ってるけど頼もしいよ」
老人が笑う。
タクトも笑い返した。
東京では、誰かと笑い合うのに理由がいった。ここでは、風がそれを運んでくれる。

夕方。
村の子どもたちが、ランドセルを揺らしながら帰ってくる。
縁側に腰を下ろすと、空はオレンジから紫へ変わっていった。
「タクト君、干し柿、食べてみな」
軒先につるされた柿をちぎって、老人が渡してくれた。
甘さが舌の奥に広がる。
「田んぼの仕事はどうだ?」
「……悪くないです。むしろ、何も考えずにいられる」
「それが、いちばん贅沢な時間かもしれん」

夜になると、村は静けさに包まれた。
蛍が流れ星のように飛び、遠くでフクロウが鳴く。
タクトは納屋の二階で寝袋にくるまり、目を閉じた。
耳に残るのは、風と水の音。
そのリズムが、まるでメトロノームのように彼の心を整えていった。

七日目の朝。
タクトは、田んぼのあぜ道に立っていた。
雲が低く、秋の気配が混ざっている。
バイクは直った。もう行ける。

「もう帰るのか?」
「はい。……でも、なんか帰りたくない気もします」
老人はうなずいた。
「田んぼの仕事は、終わりがないんだ。季節がめぐれば、また始まる。
君の旅も、きっとそうだろう」

タクトは笑って、ヘルメットをかぶった。
「また来てもいいですか?」
「風があたたかいうちは、いつでも」

エンジンをかけると、村の音が少し遠ざかる。
田んぼの水面に映る空が、揺れていた。
あの光景が、まるで心の奥でリフレインのように繰り返される。

山を下る途中、バックミラーの中で黄金色の稲穂が小さくなっていく。
タクトはスロットルを緩めた。
今までの旅は「どこか遠くへ行くため」だった。
でも、今日からは少し違う気がする。

——帰る場所を、ひとつ、見つけたのかもしれない。

風がやさしく頬をなでた。
その匂いは、あの田んぼの朝露と同じだった。

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