【7分で読める短編小説】取り壊しのまえに|忘れられたアパートに宿る“人の記憶”へ捧ぐ物語

ドラマ

町の片隅で時を止めたように建つ古いアパート。
解体工事の立ち合いに来た渡辺は、そこで出会った老女から、この建物に刻まれた“人々の暮らしの記憶”を聞くことになります。
ただの老朽化した建物が、たしかに誰かが生きた場所へと変わっていく瞬間に胸が静かに熱くなる物語です。
懐かしさを感じたい夜や、何かを手放す前に心を整えたいときに読みたい一編です。

こんなときに読みたい短編です

  • 読了目安:7分
  • 気分:しみじみ温かい/過ぎ去った時間をそっと思い出したくなる
  • おすすめ:実家や古い建物に思い出がある人、別れや変化に向き合っている人、ものの裏にある“人の物語”に心惹かれる人

あらすじ(ネタバレなし)

取り壊し予定のアパートの前で、現場監督の渡辺はひとり佇む老女と出会います。
老女はかつてそのアパートを受け継いだ持ち主で、住んでいた人たちの記憶をもう一度呼び起こすため、最後の夜に中へ入らせてほしいと願い出ます。
危険を承知で渡辺が許可すると、老女は101号室、202号室……と部屋を巡り、それぞれの住人の名と暮らしの息づかいを語り始めます。
その声に耳を傾けるうち、渡辺にとって“ただの古い建物”は、誰かが寄り添い合って生きた場所へと姿を変えていきます。
翌朝、工事が始まる前に渡辺が取った行動が、その場所に流れていた時間への静かな敬意を示すことになります。

本編

そのアパートは、まるで時間に取り残されたように、町の片隅にぽつんと建っていた。

木造二階建て。瓦屋根にはところどころ苔が生え、玄関の引き戸は赤茶けたまま固く閉じられている。壁には「解体予定」の看板が立てかけられていた。

現場監督の渡辺は、解体初日の立ち合いのために現地へ向かったが、すでに敷地の前に一人の老女が立っていた。

小柄で背筋は曲がっていたが、瞳だけは鋭く澄んでいた。

「あなたが責任者さんかい?」

「はい、工務店の渡辺です。どうされましたか?」

老女は小さく頷き、深く息を吸い込んだ。

「この建物はね、私が若いころに親から譲り受けたアパートだったんです。戦後すぐ、必死に建てた。たくさんの人がここに暮らしてね……取り壊すのはわかってる。ただ——」

老女は、ふところから紙の束を取り出した。

「一晩だけ、中に入らせてもらえませんか? 昔の人たちの“名前”を、ちゃんともう一度呼びたくて」

渡辺は迷った。

安全上、工事前の建物に入れるのは本来なら禁止されている。しかし、老女の目には、どうしても断りきれないものがあった。

「わかりました。危険な場所には近づかないようにしてください。明日の朝には工事が始まります」

老女は、深く頭を下げた。

夜、渡辺は現場の巡回がてら、再びアパートに立ち寄った。ふと、中から灯りが漏れているのが見えた。

恐る恐る引き戸を開けると、老女が古いランタンを手に、畳の部屋に正座していた。

「どうかしましたか?」

「……静かに、していてください」

老女はそう言って、小さな声で語り始めた。

「ここは、101号室。昔は、身体の弱い男の子とそのお母さんが住んでたの。母親は工場で働いて、夜遅く帰ってきてね……朝になると、隣の人が味噌汁を分けてくれてた」

「こっちは、202号室。学生が三人、共同生活してた。夜中まで騒いで怒られたけど、卒業して立派な先生になった子もいた」

老女は、まるで今そこに彼らがいるかのように、一人ひとりの名前を呼び、記憶をたどっていった。

「みんな、出ていったけれど……でも、この壁や床に、“誰かが生きてた跡”は、まだ残ってるんです」

渡辺は黙って、それを聞いていた。

自分にとってこのアパートは、ただの“古い建物”だった。地図の上にある一つの案件にすぎない。けれど老女の言葉の中で、それは急に重みを持った。

夜が深まり、老女は最後にポケットから鍵を取り出した。

「これは、この家の最初の鍵。鍵屋がもうサビてて使えないって言ったけど、捨てられなかった」

そっと、畳の上に置く。

「これで、全部おしまい」

渡辺は立ち上がり、老女に深く頭を下げた。

「……ありがとうございました」

翌朝、工事が始まる。重機が音を立てて入り、壁が崩れていく。

だが、渡辺は作業員たちに言った。

「最初の一撃は、俺がやる。……挨拶をしてからだ」

そう言って、アパートに向かって、ひとつ頭を下げた。

“誰かが生きた場所”に、敬意を持つということ。それを、あの老女が教えてくれた。

風に乗って、わずかに畳の香りが舞った。
もう誰も住んでいないはずのその場所に、たしかに人の記憶が息づいていた。

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