街角の喫茶店「オルゴール」に毎日訪れる“3時の人”。
彼が残していく白い封筒と、誰に届くこともない手紙。
その秘密に触れた店員の咲良が、やがて“待つ”という行為に込められた優しい願いを知っていく物語です。
午後の静かな時間に、心を落ち着けたいときにそっと寄り添ってくれる一編です。
こんなときに読みたい短編です
- 読了目安:7分
- 気分:しんみり温かい/静かな余韻に浸りたい
- おすすめ:誰かとの“約束”を思い出したい人、喫茶店の物語が好きな人、手紙や言葉が紡ぐ優しさに触れたい気分のとき
あらすじ(ネタバレなし)
午後3時になると必ず現れる常連客が、ある日を境に店へ来なくなる。
彼が残した白い封筒を手にした咲良は、その中に「いつか戻る誰か」を静かに待ち続ける手紙を見つける。
やがて店を訪れた若い女性から、彼が“届かない相手”に向けて書き続けていた理由が語られ、咲良は封筒に込められた願いの意味を知ることになる。
午後3時のブレンドとともに、受け継がれていく小さな約束の物語です。
本編
午後の喧騒が少しずつ静まり、日差しが斜めに差し込むころ、街角の喫茶店「オルゴール」は、一日の中でもっとも落ち着いた空気に包まれる。ちょうどその時間、午後3時になると、決まってドアのベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
店員の咲良が声をかけると、いつものように、グレーのコートを着た男性が軽く頭を下げる。名前も職業も知らない。だが、彼のことは店の誰もが“3時の人”と呼んでいた。
いつも同じ席。窓際の左端、陽の当たる丸テーブル。注文は変わらず「ブレンドを、ホットで」。彼はコートを椅子に掛け、本を開き、黙って1時間だけ店にいる。
だが、咲良はもう一つ、彼の“習慣”に気づいていた。
——テーブルの隅に、いつも置かれている白い封筒。
誰かから預かっているのか、それとも彼自身が置いているのか。彼が席を立つとき、封筒はそのまま。何も言わず、触れようともしない。ただ、毎回違うもののように見えた。
ある日の午後。いつもの時間。彼は現れなかった。
1日。2日。1週間。
咲良は、空いたその席を見るたびに、何とも言えない不安に胸を締めつけられた。
そして、ふと思い立つ。
最後に彼が座っていた日に、あの封筒は——あった。確かに。
店長に許可を取り、咲良は封筒を手に取った。中には、便箋が1枚だけ入っていた。
「君がこの席に戻る日が来たら、きっと話そう。
約束のブレンドを、もう一度一緒に飲むために。
——A」
それは、誰かを待ち続けていた人の、静かな祈りのようだった。
数日後、咲良は思い切って店の記録ノートを開いた。会計記録に名前はなかったが、常連客の中に、以前“彼”と少しだけ話をしたという老婦人がいた。
「あの人ね、毎日手紙を書いていたの。誰かに宛てて。でもね、出してなかったのよ。『届かない相手なんです』って、寂しそうに笑ってたわ」
届かない相手。——じゃあ、封筒は、その“誰か”のためのもの?
咲良の胸に、小さなひっかかりが残った。
季節は、ゆっくりと春へ向かっていた。
店には新しい客が増え、咲良も忙しく働く中で、あの出来事は少しずつ遠ざかっていった。
——そしてある午後、3時ちょうどに、ベルが鳴いた。
「いらっしゃ……」
咲良の声が止まる。だがそこに立っていたのは“彼”ではなかった。
若い女性だった。髪は彼と同じくやや灰色がかった黒で、静かな瞳が印象的だった。
「この席……以前、父がよく座っていたと聞いて。間違いありませんか?」
咲良は頷き、あの封筒のことを話した。
彼女は目を伏せ、ゆっくりと話し始めた。
「父は10年前、ある約束を破ったまま、その人と会えなくなったんです。事故で、相手の女性が遠くの施設に送られて……連絡もつかなくなって。でも、ここでだけは“待ち続けられる”と思ったみたいで」
彼女の鞄から、一通の封筒が出された。店に残っていたものとよく似ていた。
「父は亡くなる前日まで、この封筒をカバンに入れていました。『これが届かなくても、ここにあれば十分だ』って」
咲良は涙をこらえながら、封筒を受け取った。
「よかったら……今日、ブレンドを一緒に飲みませんか?」
女性は驚いた顔をしたが、微笑みながら頷いた。
テーブルには、ホットのブレンドが2杯。
小さな紙ナプキンに、咲良はそっとペンを走らせた。
「約束は、まだここにあります」
その日以来、「午後3時の人」は別のかたちで店に戻ってきた。
あの席には時折、封筒が置かれる。そして静かにブレンドを飲む人の横顔が、今日もまた、誰かの物語を運んでいる。

