午前4時の冷たい空気の中、自転車の音だけが響く早朝。
高校生の大地は、一日の始まりをまだ迎えない町へ新聞を届けながら、自分だけの静かな世界を走っていきます。
誰にも気づかれないと思っていた仕事が、実は誰かの「一日を支える時間」になっていた——そんなささやかで温かい気づきの物語です。
疲れた朝や、少し前向きになりたいときにそっと寄り添う一編です。
こんなときに読みたい短編です
- 読了目安:5分
- 気分:しんみり温かい/静けさの中に希望を感じたい
- おすすめ:地道な努力に自信をなくしそうな人、早朝や夜勤など“人に見えない仕事”をしている人、小さなつながりの力に触れたいとき
あらすじ(ネタバレなし)
進学費用を貯めるために新聞配達を始めた高校生の大地。
眠い目をこすりながらも、誰もいない早朝の道を走る静けさが、いつしか彼の支えになっていた。
ある日、配達先の家に「毎朝ありがとう」と書かれた小さなメモを見つけ、大地は“見てくれている人がいる”という温かさを知る。
やがてその家の住人と出会い、新聞配達が誰かの「一日を始める合図」になっていることを実感する大地。
朝焼けが町を照らし始めるころ、彼は新しい気持ちでペダルを踏み出していく。
本編
午前四時の空気は、音を吸い込むように静かだった。
高校二年生の大地は、眠い目をこすりながら自転車にまたがった。制服ではなく、ジャンパーにジーンズ。カゴには折りたたまれた新聞の束がぎっしり詰まっている。
町はまだ眠っていた。街灯だけが黄色く灯り、家々の窓はカーテンに覆われていた。そんな中、大地はひとつひとつのポストに、新聞を差し込んでいく。
「……よし、今日は風が少ない」
風が強いと、新聞がふわりと飛んでいってしまう。時には犬に吠えられ、急な坂道ではペダルを立ち漕ぎしながら息を切らすこともある。
けれど、この時間帯の静けさが、大地は少しだけ好きだった。
誰もいない道を走ると、世界が自分だけのものになった気がする。
まだ人の気配がしない町を、大地は自分のリズムで駆け抜けていく。
新聞配達のバイトを始めたのは、半年前。母子家庭で育った大地は、進学費用の足しにと、早朝のアルバイトを選んだ。
「大変でしょう? 学校もあるのに」
クラスメイトに言われたとき、大地はただ笑っていた。
「まあね。でも、慣れると意外と悪くないよ」
その言葉には、本音が少しだけ混ざっていた。
ある朝のことだった。
配達ルートの途中、いつもと変わらない一軒家のポストに、ふと視線をやると——そこに小さなメモが貼られていた。
『毎朝ありがとう。助かっています。』
手書きで、丸い字だった。誰のものかはわからない。でも、その一枚の紙片が、大地の胸をふっとあたためた。
「……見ててくれる人がいるんだな」
それ以来、大地はその家のポストを通るたびに、ちょっとだけ背筋を伸ばすようになった。
落ち葉にタイヤを滑らせそうになっても、手袋の中で指先がかじかんでも、その紙切れの記憶が、大地を支えてくれた。
ある朝、大地はその家の前で新聞を配達していると、ちょうど玄関からおばあさんが出てきた。
「あら、あなたが配ってくれてるのね」
笑顔だった。メモの筆跡と同じ、やわらかい雰囲気。
「はい。……いつもありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうね。朝、新聞が届いてると、なんだか一日が始まる気がしてね」
おばあさんはそう言って、深く頭を下げた。
何でもない会話だった。だけど、大地の中で何かが確かに変わった。
新聞配達は、誰かの「一日」の始まりに関わっている。
誰の目にも映らない時間だけど、その中には確かな“繋がり”があった。
——目立たなくても、誰かの一部になる。
それは、学校の教室では感じられない感覚だった。
朝焼けが町を染めていく。
空が濃紺から橙へと変わり、屋根の上に光が差しはじめる。
今日もまた、大地はいつもの道を自転車で走る。
静かで、確かで、誰にも知られない——けれど、あたたかな日常のルートを。
新聞を差し込んだポストの先、ふと見上げると、窓辺におばあさんの影が見えた。
大地は、ヘルメットの下で小さく笑った。
「行ってきます」
心の中でそうつぶやくと、ペダルを踏み込んだ。
新しい朝が、またひとつ、始まる。

