驚異的な進化を“選択”できる未来。
知能も肉体も感情も、数万年先の人類へと一気に近づける──そんな代理進化サービスが当たり前となった世界で、ひとりだけ“退化”を申請した男がいた。
効率と合理性を追う社会のなかで見失われていく「感じる力」と「人間らしさ」。
クサカ・リョウという一人の選択が、世界に静かな問いを投げかけていく物語です。
完璧さに疲れたとき、自分のままでいたい気持ちを思い出したいときにおすすめの一編です。
こんなときに読みたい短編です
- 読了目安:7分
- 気分:しんみり/価値観を軽やかに揺らしたい
- おすすめ:効率主義に息苦しさを抱える人、感情の揺らぎを大切にしたい人、“強さよりやわらかさ”を選びたくなる瞬間がある人
あらすじ(ネタバレなし)
代理進化サービスにより、人類は知能も体力も感情制御も自由にアップデートできる時代。
誰もが「より良い人間」になることを当然とする社会で、クサカ・リョウはただ一人“退化”を申請する。
記憶力も身体能力も下げ、感情の振れ幅を広げる——非効率で不合理な選択。
だが処置後の彼は、「世界の色が戻ってきた」と語る。
その姿に触れた人々は、進化の価値を問い直し、社会全体が“選べる未来”へと動き始める。
進むだけが未来ではない、その事実に気づく物語。
本編
「進化に時間をかけすぎる人類へ」
その広告が初めて放送されたのは、地球政府が“代理進化サービス”の正式提供を開始した日だった。申請すれば、自身の知能、肉体、感情に関する進化を選び、最新の遺伝子調整および脳神経再構築技術によって“数万年先の人類像”を先取りできる。
サービス開始から一年。利用者は爆発的に増えた。
IQ200を超える子ども、老化の止まった肉体、争いを避ける温和な社会性。世界は変わり始めていた。
そして、今日もまたひとり、新たな申請者が登録された。
名前は〈クサカ・リョウ〉、29歳、職業不定。
彼の申請内容は、システムを担当する技術官たちの眉をひそめさせた。
「……“退化”?」
チーフのエレナが、端末を睨みつける。
「肉体の柔軟性を下げ、記憶処理能力を落とし、感情の振れ幅を広げるよう申請されている。すべての項目が“原始化”を求めている」
「……この人、何考えてるんだ」
研究室は静まり返る。進化が当然とされるこの世界で、“退化”を望む人間が現れたのは、初めてのことだった。
クサカは笑っていた。簡易検査のモニター越し、彼は技官の質問にこう答えた。
「進化って、本当に“上へ登る”ことなんですかね?」
「あなたは、現状に不満があると?」
「むしろ逆ですよ。皆が賢く、強く、穏やかで、効率的に進んでる。でも……どこか、誰とも繋がってない気がして。皆、完璧になっていくほど“自分だけの感情”を忘れてる」
「それで、“感情の振れ幅”を戻したいと?」
「はい。怒ったり、泣いたり、バカみたいに恋したり……それ、全部“ムダ”かもしれないけど、人間が人間であるための余白だと思うんです」
エレナは沈黙した。彼の申請は、倫理委員会で揉めに揉めたが、制度の設計上“選択の自由”を制限する根拠はなかった。
申請は承認された。
クサカは、代理進化ポッドの中で静かに目を閉じた。
処置は数時間で終わった。
再び姿を現した彼は、明らかに変わっていた。目の奥に以前より生々しい光があり、話すたびに感情が波打っていた。歩く姿はどこか頼りなく、声にも震えが混じる。
「おかしいと思うでしょう?」
彼は笑った。
「でも、驚くことに……“世界の色”が戻ってきたんです。風の音とか、道端の草とか、人の声とか」
「そんなの、元から世界にあったものだ」
「違うんです。“感じる”ってことが、もう世界に許されてなかった。進化は、確かに人間を賢くした。でも同時に、“感じる力”を削っていた」
クサカの退化は、ネットを通じて瞬く間に広がった。
賛否が渦巻いた。
「非効率だ」「時代遅れ」「感情に振り回される旧人類」
だが一方で、「あの人の言葉で初めて泣いた」「進化じゃなく、選択だったんだ」と語る人も増えた。
やがて、政府は制度の再検討を迫られる。代理進化サービスは、次第に“進化だけではない自由”を含む形に修正された。
ある日、エレナはクサカに会いに行った。
彼は、町の小さな図書館で子どもたちと紙芝居を読んでいた。大げさに声を変えて笑う彼に、子どもたちは声をあげて笑った。
「……どうしてそんな選択をしたのか、今なら少し、わかる気がする」
「でしょ? でも、進化も否定はしませんよ。ただ、“どっちが上か”なんて、誰にも決められないってことです」
夕暮れの空が、紫と金に染まっていた。
世界はゆっくりと、もう一度“人間”に戻り始めていた。

