夜の森は、誰もが怖がる場所だった。
けれど、心が少しだけ疲れているとき——その森には、小さな“道”が現れる。
パンくずの道。
それは、誰が置いたとも知れぬ、やわらかいパンのかけらでできた、小さな道。ふわりと甘い香りがして、ふっと一歩、誘われる。
村のはずれに住む少女・ミナがその道を見つけたのは、ちょうどそんな夜だった。
夕方、両親が言い争う声が聞こえた。
学校では、友だちとの間に気まずい空気があった。
何をしても、どこにいても、自分の“居場所”がない気がして、ミナは家を飛び出した。
あてもなく歩き、気がつけば森の入り口。
そして目の前に現れたのは、パンくずの道だった。
——行ってみようか。
そんな気持ちになったのは、きっとその夜の月が、やさしく揺れていたから。
パンくずを一つずつ踏まないように、慎重に歩く。
それでも、足音はとても静かだった。
枝が揺れ、草がささやき、ふわりと甘い風が頬を撫でる。
しばらくすると、小さな家が見えてきた。
苔むした屋根、木の枝でできたドア、煙突からはあたたかな煙が上がっている。
「おやおや、いらっしゃい」
扉を開けて出てきたのは、小柄なおばあさんだった。
白い髪を三つ編みにして、エプロンをつけている。けれどその目には、不思議な優しさと、どこか“空白”があった。
「おばあさん……あなた、誰?」
ミナが聞くと、おばあさんはくすっと笑った。
「さあねえ、私もよくわからないの。でも、こうしてパンを焼いているとね、人がやってくるのよ。少し、疲れた人たちがね」
テーブルの上には、焼きたてのパンが並んでいた。
丸いパン、四角いパン、レーズン入り、ナッツ入り。どれも、あたたかくて甘い匂いがする。
「ひとつ、食べていきなさい。きっと、心が少し落ち着くわ」
ミナは、おそるおそるひとつ手に取った。
それは、不思議なほど“懐かしい”味がした。
まるで、小さい頃に母が作ってくれたおやつのような。
おばあさんは、ゆっくり紅茶を淹れてくれた。
火のゆらめき、カップの湯気、時計の針が静かに進む音。
どれもが、“安心”という言葉に包まれていた。
「おばあさんは……ここで、ひとりで暮らしてるの?」
「そうよ。でも、時々こうしてお客さんが来てくれるから、寂しくはないわ」
おばあさんは、目を細めて微笑んだ。
でも、その瞳の奥には、やっぱり少しだけ“何かを忘れている”色があった。
ミナは、ぽつりとこぼした。
「……わたし、逃げてきたの。おうちも、学校も、全部いやになっちゃって」
おばあさんは、ただ「うん、うん」とうなずいた。
「でもね、ミナちゃん。逃げることって、全部が悪いことじゃないのよ。ちゃんと戻る場所があるなら、休んでもいいの。そういうとき、人は自分を思い出すの」
「思い出す?」
「ええ。ほら、パンだってそうでしょう? 粉と水と酵母だけじゃなくて、“寝かせる時間”があるからふっくらするの。人もね、ちょっと寝かせてあげればいいのよ、心を」
ミナは、目を伏せて笑った。
「……パンになった気分」
その夜、ミナはおばあさんの家で眠った。
小さなベッドに毛布。窓の外では、森が静かに息づいていた。
目が覚めたとき、朝の光がカーテンのすき間から差し込んでいた。
ミナは、そっとベッドを降りて、リビングに行った。
でも、そこには誰もいなかった。
パンの香りだけが、ほんのり残っていた。
テーブルの上には、一枚のメモがあった。
『ミナちゃんへ。よく眠れたかしら? パンは持って行っていいのよ。また疲れたら、パンくずの道を探してね。 おばあさんより』
ミナは、そのメモを胸にしまった。
家に帰ると、母が泣きそうな顔で出迎えてくれた。
「どこに行ってたの、心配したんだから!」
「ごめん。でも……ちょっと、いい夢を見てたの」
ミナはそう言って、リュックからパンを取り出した。
春の陽射しが、キッチンに差し込んでいた。
ミナは、あの夜の森を思い出しながら、ひとくちだけパンをかじった。
心の奥で、小さな甘さがひろがった。
それは、パンくずの道の記憶だった。

