【短編小説】30分後、また別の顔

日常

理沙は、スマホの画面を見つめながら、次の“顔”を選ぶ。

「駅前のパン屋:販売補助、時給1100円、3時間」

指がタップを押すと、通知音が鳴る。
バイト確定。スキマバイトアプリで、またひとつ今日の時間が埋まった。

大学三年生。就職活動の前段階に入りつつも、特に夢はない。かといって、焦りがないわけでもない。だからこそ、空いた時間に“何か”を埋めるように、理沙はいろいろな現場で働いていた。

パン屋では白いシャツに三角巾をつけ、「いらっしゃいませ」と声を張る。

昼前、子ども連れの母親が「このクリームパン、まだ温かいよ」と子どもに話しかけたとき、理沙の手も、ほんのりと生地の柔らかさを思い出していた。

「ありがとうね」と言われ、レジの向こうでそっと微笑み返す。

バイトが終われば、その制服を脱ぎ、別の自分に戻る。

夕方、今度はビルの清掃現場。ゴム手袋にモップ。名前も知らない人たちと、無言の時間を分け合う。

「学生さん? 手際いいね」

無口そうな年配の女性が、ふとそう言った。

「いえ……まだまだで」

そう返したとき、言葉の中に少し“居場所”ができた気がした。

夜になれば、ティッシュ配り。ネオンの下、通り過ぎる無数の足音。ほとんどの人は受け取らない。けれど、一人だけ、立ち止まってこう言った。

「今日、誕生日なんだ」

若い女性だった。通りすがりに立ち止まり、ティッシュを受け取ると、そうぽつりとこぼした。

「おめでとうございます」

理沙はとっさに言った。

「ティッシュだけですけど……気持ちです」

女性は笑って、ペコリとお辞儀した。それだけの会話。でも、不思議な余韻が、しばらく心に残った。

深夜、時には工場でラベル貼り。機械のように単純な作業。でも、手元を見つめていると、少しずつ“無心”になっていく。

「単純な作業のほうが、考えごとできるから好き」

隣の席の男子学生が言った。

「私も……結構、そうかもです」

そう答えると、彼は少し驚いたように笑った。

「意外。話しかけにくい雰囲気だったから」

理沙は苦笑いした。知らない誰かの言葉が、自分を鏡のように映すこともある。

30分後、別の場所で、また別の服を着て、また別の声を出す。

誰も理沙の名前を知らない。

けれど、その代わりに、彼女は無数の“出会いのかけら”を拾い集めていた。

ある日、ふと大学の講義の合間に、公園のベンチに座った。

スマホを見ず、空を見た。風が枝を揺らし、落ち葉が地面を跳ねた。

手の中には、朝のバイト先でもらった菓子パンの包み。パン屋の店長が「余ったから持ってきな」と言って渡してくれた。

その甘さが、妙にあたたかかった。

——私は誰かの顔になれる。

そう思った。

販売員、清掃員、配布員、作業員。役割は短く、名札はその日限り。

でも、そのときその場所で、理沙は確かに“居た”。

そして、誰かと一言、交わした。

それが、無数の断片として胸に残っていく。

もしかしたら人生は、そういう小さな断片の積み重ねなのかもしれない。

アプリの通知が鳴った。

「次の案件が見つかりました」

画面には、新しいバイトの一覧。

理沙は、ひとつ選びながら、そっとつぶやいた。

「じゃあ、次の30分は、どんな顔になろうか」

その声は誰にも届かない。でも、自分にはちゃんと聞こえていた。

今日もまた、見知らぬ誰かの前で、理沙は静かに“その人”になる。

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