町の写生大会の朝、少年・遼(りょう)は胸がざわついていた。
みんなは川辺や古い街並み、花壇や噴水を選ぶ。安全で、人目に映えて、確実な構図。だけど、遼はふと、誰も振り返ろうとしない神社の森を見た。苔むした木の根、ひっそりとした闇、苔石の鳥居。そこにこそ、何かがある気がしたのだ。
木炭と透明水彩を前に、遼は息を吸った。
「この森を描く」
そう決めた。
風がざわりと吹き、木立の隙間から木漏れ日が差す。遼は筆を動かす。淡い緑、こげ茶、翡翠の影を重ねていく。描きながら、まるで森と呼吸を合わせるようだった。
すると、瞬間――
絵の中の葉の一枚が、ほんの薄く光った。次いで別の葉も。銀緑がきらりと動き、紙の縁を越えて空気に滲んだ。遼は驚いて筆を止めた。
でも、森は呼んでいた。
目をつぶってもう一度開くと、そこは写生地ではない場所だった。緑の匂い、湿った土の匂い、木のざわめき。彼は、絵の中の森にいた。
周囲に広がる樹々は、彼が描いたものと一致しながら、確かに“現実”でもあった。画布からはみ出した蔦が地面を這い、描いた小さな石橋が水面を渡って川になっていた。
――完成するまで、ここから出られない。
絵を完成させない限り、戻れないという予感が心をひりつかせる。遼は震える指で筆を取り直す。だが、最初は戸惑った。
道が二つに分かれた。右は暗く深い林、左は光の差す小道。どちらを描くべきか。迷う。描けば方向が決まるのかもしれない。だが、取り返しのつかない線を引く恐れもあった。
歩みながら、遼は虫の音を聞いた。苔むした根元で小さな動物が動く気配。影が揺れ、葉が揺れ、すぐ消えた。筆を構え、振り向くと、そこには小さな影だけが残っていた。
やがて、森の中心だろう場所に、古びた鳥居が現れた。そこには、空白の額縁があり、その向こうが空のように晴れていた。遼は鳥居を描く線を、ためらいながら引いた。
「ここから外へ――」
額縁に空を描き、向こう側の道を少しずつ描いた。筆が震え、時に動かない。疲れと不安が手を締めつける。
だけど、森は彼を見守るように、風を運んだ。葉が揺れ、木漏れ日がゆらめき、筆先にひらりと落ちる花びらのようなものがあった。
遼は顔を上げて深呼吸した。描くという行為が、森に語りかけるような気がした。自分の想像力が息づく世界だと。
額縁の向こう側が少しずつ、外の景色へ変わっていった。青空、遠い丘、夏の空気。
最後の一筆を入れたとき、空気がざわりと震えた。鳥居の額縁がゆらゆらと揺れ、森全体が光を帯びた。
目を閉じて、一呼吸。
再び目を開くと、そこは大会会場の神社の森だった。皆が自分の絵を囲んで、談笑している。遼の前には、木炭と水彩、そして、彼の描いた紙がある。
その紙の森には、翼を広げた鳥が飛び込む様子が描かれていた。光の筋が葉に反射している。
「すごい、遼くん、この木、すごく生きてるみたいだ」
友だちの声に、遼は照れ笑いした。だがその心の中には、まだあの森の湿りと風の記憶があった。
――絵の中の森は、もうそこにない。しかし、遼が想像して、信じて描いたからこそ、彼の中に、風のあしあととして残った。
彼は筆箱をしまい、空を見上げた。夏の雲が淡く流れていく。
そして、そっとつぶやいた。
「ありがとう、森」
これから先、どの風景を描くときも、あの日、絵の中に入ったあの森が、いつも相棒になるだろう。

