「最近、また現れたらしいよ。あの黒いタクシー」
都市伝説マニアの間では有名な噂だった。
乗れば“どこへでも行ける”という黒塗りのタクシー。しかも、乗ると運転手は一言だけ、こう言うのだという。
「料金は未来で」
そのタクシーに乗った者のうち、数人は戻ってこなかった。
「未来に行った」と言い残し、家族の前から姿を消した人もいる。
都市伝説を特集する雑誌記者・吉永は、仕事の一環としてそのタクシーの調査に乗り出した。
「馬鹿馬鹿しい」と思いながらも、どこか惹かれていた。
40代半ば、冴えない背広姿で、家庭も崩壊寸前。人生に、何ひとつ“特別な何か”がなかった。
調査を続けるうちに、いくつかの共通点が見えてきた。
——タクシーが現れるのは、深夜3時前後。
——街灯の少ない裏通りに停まっている。
——運転手は帽子を深くかぶり、顔が見えない。
——行き先を問われ、乗客が答えると、「料金は未来で」とだけ言う。
吉永はそれらの情報をもとに、ある夜、裏通りを歩いていた。
午前2時50分。人気のない道。
街灯がひとつ切れかけ、チカチカと瞬いている。
そのとき——
遠くに、一台の黒いタクシーが停まっていた。
なぜか、すぐにわかった。これだ、と。
近づくと、運転席の男がこちらを見る。顔は見えない。
何の躊躇もなく、吉永は後部座席のドアを開けた。
車内は驚くほど静かだった。エンジン音すら聞こえない。
「どちらまで?」
低く、しわがれた声。
だが、どこか懐かしい響きだった。
吉永は少し迷ってから答えた。
「……息子に会える場所まで」
三年前に別れた息子。離婚後、一度も会っていなかった。
父親らしいこともできず、謝罪すら伝えられていない。
運転手はひと言だけ、静かに告げた。
「料金は未来で」
そして、何も言わずに車を走らせた。
景色はすぐに変わり始めた。
夜の街が、やがて霞に包まれ、見知らぬ建物が立ち並ぶ通りへと姿を変える。未来の都市のような場所。だが、現実離れしすぎていない。どこか、ほんの少しだけ“進んだ”世界。
タクシーが止まったのは、小さな公園だった。
ベンチに、ひとりの少年が座っている。
——いや、少年ではない。
成長した、面影を残した青年だった。
吉永は震える手で車を降り、彼に近づいた。
「……健人?」
青年は、驚いたように顔を上げた。
「……お父さん?」
その声を聞いた瞬間、何年も閉ざされていた何かが、一気に溶けた。
「会いたかった」とも、「ごめん」とも言えなかった。
ただ、吉永は彼の名前を呼んだ。
「……健人」
「どうしたの、急に?」
「……ちょっと、未来に来たくなってさ」
ふたりはしばらくベンチに座っていた。何を話したかは覚えていない。
ただ、時の流れの中で、ようやく“父と子”が再び出会ったという事実だけが、心に刻まれた。
タクシーに戻ると、運転手はじっと前を見たまま言った。
「お支払いは?」
吉永は笑って答えた。
「……未来で、払うんだろ?」
運転手は、珍しくうなずいたように見えた。
翌朝、吉永は目を覚ました。
会社のデスクだった。
誰かが毛布をかけてくれていた。まるで、昨夜の出来事がすべて夢だったかのようだった。
だが、胸ポケットには一枚のレシートが入っていた。
『乗車記録:吉永 様 行き先:未記載 料金:未来にて支払い済』
そこに書かれていた日付は——明日、だった。
吉永はその日から、息子に手紙を書き始めた。
まだ届かないかもしれない未来へ。
でもきっと、どこかで読んでくれる未来へ。
あの黒いタクシーは、それ以来見かけない。
けれど、都市のどこかで、誰かがそっと願いを乗せたとき。
きっとまた、あの声が聞こえるのだろう。
「どちらまで?」
そして——
「料金は未来で」

