朝5時、空にはまだ薄い青が広がるだけだった。
北海道の東にあるこの牧場では、朝の搾乳作業が一日の始まりだ。
直樹はその時間に、もうすっかり慣れていた。
都会の暮らしに疲れ、逃げるように飛び込んだ季節雇用の募集。
「牛の世話なんてできるのか?」と親には笑われたが、行く先がほかに思いつかなかった。
初めてこの牧場に来た日のことは、今でもよく覚えている。
風が強くて、言葉も飛ばされそうだった。牛の匂い、干し草の手触り、長靴の底を押すぬかるみ。すべてが都市生活とは異質だった。
最初は馴染めなかった。
牛の目を見て怖くなり、搾乳器の扱いに手間取り、夜には疲れ果てて風呂で寝た。
けれど、農場主の沢村さん夫婦は、何も言わずに見守ってくれた。
「牛は、嘘つかないからな」
そう言って、沢村さんが初めて教えてくれた。
牛は人をよく見ている。無理をしていれば分かるし、恐れていれば近づかない。
直樹はその言葉を、ずっと心に置いてきた。
やがて、子牛が生まれた。小さな茶色い毛並みと、つぶらな瞳。
名前は「ハル」と呼ばれることになった。
直樹は、気づけばその世話を任されていた。
毎朝、少しずつミルクの量を増やし、日ごとに背が高くなっていくハルに、自分の時間も重なっていく気がした。
夕暮れになると、放牧場に向かって歩いた。草原の中で風が吹くたび、牛たちの群れの向こうに、白い雲が流れていった。
ある日、ふと気がついた。
——この風は、東京では感じたことがなかった。
心の奥まで通り抜けていくような風。懐かしいわけでも、慰めるわけでもない。ただ、自分という存在を丸ごと受け入れるような、そんな“無言の力”だった。
「直樹くん、最近、顔が変わったな」
そう言ったのは、沢村さんの妻・明子さんだった。
「来たばかりのころは、心ここにあらずって顔だったのに、いまは“ちゃんといる”って感じがするよ」
その言葉が妙に胸に残った。
都会では、“いる”ということがどこか曖昧だった。すれ違い、見失い、居場所を探すだけの毎日。
けれど、ここでは「牛の世話」という行為の中に、確かに“自分がいる感覚”があった。
ハルが生後3ヶ月を迎えた朝、直樹は小屋の前でじっと立ち止まった。
ハルが近づいてくる。鼻をすり寄せる。
言葉なんていらなかった。
その目を見ればわかる。そこには、信頼と記憶が確かに宿っていた。
「ありがとうな」
ぽつりと呟いた声は、風に溶けて消えた。
季節は、夏から秋へ変わろうとしていた。
麦畑が金色に染まり、風が冷たさを運び始めたころ、直樹の季節雇用の終わりが近づいていた。
帰る場所があるのか、もう一度東京に戻るのか、自分でもわからなかった。
けれど——
「ここでの時間は、ちゃんと自分の足あとになった」
そう思えた。
ある朝、搾乳を終えて空を見上げると、一筋の風が草原を渡っていった。
牛たちが顔を上げた。ハルも、少し大きくなったその身体で、こちらを見ていた。
「また来るよ。できれば……何度でも」
そう言って、直樹は両手をズボンのポケットに入れ、風の吹く方へ歩き出した。
誰も言葉をかけなかったが、風の中に「行ってらっしゃい」という声があった気がした。
“風のあしあと”は、草原の上に、そして直樹の心に、たしかに残っていた。

