【短編小説】204号室の朝食

ミステリー

大学二年の夏、光太は海沿いのリゾートホテルで住み込みバイトを始めた。

アルバイト募集の条件に「早朝勤務歓迎」とあったのを見て、他に競争相手もいないだろうと応募したが、実際には“それなりに面倒な仕事”だった。

朝五時起きで朝食の準備、トレイの確認、各部屋への配膳。すべてが分刻みのスケジュールで動いている。

中でも、支配人から初日に念を押された言葉があった。

「204号室の朝食だけは、必ず時間通りに。いいね? 一分のズレも許されないから」

最初は正直、意味が分からなかった。

部屋のチャイムを鳴らし、応答はないまま扉の前に朝食を置く。それだけのこと。でも、毎朝、きっちり七時に届けなければならない。トレイの上には紅茶とサラダ、スクランブルエッグ、バゲット——何の変哲もない内容だ。

宿泊客の姿は一度も見たことがない。

無言のドア、無言の朝食。

それでも、日々を重ねるうちに、光太は次第にその仕事に心を向けるようになった。

バゲットを少し温かいまま届けるために順番を変えたり、紅茶のポットをタオルで包んで冷めにくくしたり。誰に見られるわけでもないが、何かを丁寧にする行為自体が、妙に心地よかった。

ある日、いつものように朝食を届けに行った光太は、トレイを下げるために戻ってきて、ある異変に気づいた。

ナプキンの下に、小さな封筒が置かれていた。

中には、淡い筆致の文字が綴られていた。

『あなたがいたころ、朝食はいつも一緒でしたね。私は相変わらず、紅茶に砂糖を入れすぎてしまいます。』

光太はドキリとした。便箋は古びていたが、文字は鮮やかだった。

その日を境に、毎朝の朝食に一通ずつ手紙が添えられるようになった。

どの手紙も「あなた」への語りかけで始まり、日常の些細なことが綴られていた。鳥の声が変わったこと、ホテルの花壇に新しい花が咲いたこと、そして、204号室にまた一泊延長したこと。

光太はそれを、誰にも言わずに読んだ。

手紙は、誰かの時間をそのまま保存していた。やがて彼は、フロントの同僚にさりげなく聞いてみた。

「ねえ、204号室って、誰が泊まってるの?」

「……え? 今は誰も泊まってないよ」

「え?」

「204号室はね、もう何年も“予約専用部屋”なんだよ。かつて毎年泊まってくれてたご夫婦がいてね。奥様が亡くなった後も、旦那さんがひとりで来て、同じ朝食を頼んでた。でも、その旦那さんも三年前に亡くなって……それから、ずっと空き部屋のままなんだ」

光太は、血の気が引いた。

「でも、朝食……届けてるよ。毎朝、ちゃんと取られてるし、手紙も……」

「え?」

フロントのスタッフは怪訝な顔をした。

「手紙?」

その夜、光太は誰もいないはずの204号室の前に立った。

ノックしても返事はなかったが、静かな気配だけは確かにあった。

翌朝、トレイを運ぶ手に、自然と力がこもった。紅茶の温度、パンの焼き加減、花の向き、ナイフの角度。

それらが、すべて“何か”を伝える手段になる気がした。

朝食の横に、今度は光太が小さなメモを添えた。

『いつも、お手紙をありがとうございます。私は光太といいます。もしよければ、また手紙を読ませてください。』

その日を境に、手紙は少しずつ変化した。

『光太さんへ——』

見えない相手との“文通”が始まった。

話題は夫への思い出から、少しずつ光太への質問に変わった。学生生活、将来の夢、好きな音楽。

手紙を通じて、見えない誰かの記憶と現在が交差し、時間を超えた会話が続いた。

ある朝、封筒の中に一通の“最後の手紙”が入っていた。

『光太さんへ——

長くなりました。そろそろ、お別れの時のようです。

あなたの紅茶は、私の心をあたためてくれました。

きっと、あの人もそう言っていると思います。

ありがとう。

あなたの未来が、優しい朝で包まれますように。』

それから、204号室の朝食は、届くことも、下げに行くこともなくなった。

光太はその後もホテルの仕事を続けた。

紅茶の注ぎ方ひとつに、バゲットの焼き色ひとつに、見えない誰かの気配を重ねながら。

「ありがとう」の重みを、確かに知っていたから。

タイトルとURLをコピーしました