【短編小説】手を握る午後

ドラマ

介護施設「はるの家」で働き始めて、三ヶ月が経った。

新人の葵にとって、それは嵐のような日々だった。早番、遅番、夜勤。食事の介助、排泄のケア、入浴の補助。初めてづくしの現場に、心も体も追いつかず、何度も辞めようと思った。

「優しく、丁寧に、寄り添って——」

研修で教えられたことは頭にある。けれど現実は違う。暴れる利用者、何度説明しても忘れてしまう人、感情をぶつけてくる家族。その一つひとつに、葵の心はすり減っていった。

特に、無口な女性・山岡静子さんの存在が、葵には重かった。

彼女は認知症の進行が進んでおり、ほとんど言葉を発しない。感情の起伏も乏しく、何を考えているのか分からない。車椅子に座って窓の外を見つめる姿は、まるで時間が止まっているようだった。

ある日、昼食の時間。静子さんは食事を前にじっと座っていた。口を開けてもらおうと葵が声をかけても、反応はない。

「山岡さん、ごはん食べましょうね。ね、口開けて……」

小さなスプーンを持ったまま、葵は静子さんの前で立ちすくんだ。先輩が通りかかり、さっと代わってくれたが、葵の胸には「またできなかった」という痛みだけが残った。

その日、ロッカールームで制服をたたみながら、涙がこぼれた。

——私、向いてないのかもしれない。

その思いを抱えたまま迎えた、ある雨の日の午後。

食堂では、雨音を背景にテレビの音が流れていた。利用者たちは思い思いに過ごしていたが、静子さんだけは窓際の椅子にじっと座っていた。

葵は、ふと吸い寄せられるように近づいた。

「……雨、ですね」

静子さんは何も言わなかった。ただ、ぼんやりと雨粒を見つめていた。

沈黙の中、葵はそっとその手を取った。

細く、しわの刻まれた手。驚くほど冷たくて、それでもどこか懐かしいぬくもりがあった。

そのとき——

静子さんが、ふいに握り返してきた。

ぎゅ、と、しっかりと。

そして、葵の目を見て、かすかに微笑んだ。

「……ありがとう」

その声は、本当に小さくて、雨音に溶けそうなほどだった。それでも、確かに聞こえた。

一瞬、時が止まったようだった。

葵は涙をこらえながら、静子さんの手を握り返した。

——ああ、この仕事に、“ちゃんと意味があったんだ”。

言葉じゃなくても、笑顔じゃなくても、人は誰かを必要としてくれる。その手のひら一つで、それが分かることがある。

その日から、葵の中で何かが少し変わった。

失敗は相変わらずあった。叱られることも、落ち込むこともあった。それでも、葵はもう、逃げ出そうとは思わなかった。

夜勤の巡回でそっと掛け布団を直すとき、車椅子のブレーキを外すとき、手を添えて歩くとき。

ふとした瞬間に、誰かの手が、そっと握り返してくれる。

それは、「大丈夫」という言葉よりも深く、静かな信頼の証だった。

午後の雨は止み、雲の切れ間から光が差し込んだ。

静子さんはその日も、窓のそばで座っていた。

葵はそっと近づき、笑顔で声をかけた。

「山岡さん、今日も風が気持ちいいですよ」

静子さんは何も言わなかったが、ゆっくりと手を差し出してきた。

葵はそれを、丁寧に握った。

午後の光の中で、二人の手が、そっと重なっていた。

——それだけで、今日という一日が、たしかに“あった”と感じられる。

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