【短編小説】土手日和

日常

川の土手は、いつも風が通っていた。

ざわざわと草が揺れ、電車の音が遠くに響き、カラスが低く鳴く。街の喧騒から少しだけ離れたその場所に、紗季は毎週水曜の夕方になると、ひっそりと現れる。

広告代理店に勤めて五年。忙しさには慣れたけれど、人の顔色を読むことにも、終わりのないプレゼンにも、どこかで“自分”が置き去りになっている気がしていた。

会社のチャットを閉じ、スマホの通知を切って、土手に寝転がる。何も考えずに空を見る——それが、紗季のひそかな習慣だった。

風の音、虫の声、誰かが通り過ぎる足音。どれも何気ない音だけれど、それらが“今ここにいる”という感覚を呼び戻してくれる。

そんなある日、紗季は気づいた。

——毎週、同じ時間に、同じ男の人が土手のベンチに座っている。

黒いリュック、スニーカー、膝の上で開いた文庫本。話すわけでもなく、ただ、ベンチの端で静かに本を読む。だけど、彼がそこにいることで、風景に「定点」ができた気がして、紗季は少し安心していた。

三度目の水曜、彼がこちらをちらりと見た。

五度目の水曜、軽く会釈を交わすようになった。

七度目の水曜、その日は風が強く、紗季のスカーフがふわりと飛ばされた。

「あっ……!」

草むらに落ちる前に、彼がそっと拾ってくれた。

「……これ、風、つかまえました」

その言い方に、紗季は思わず吹き出した。

「ありがとうございます、すごいですね、風を」

「毎週、来てますよね」

「ええ、そっちも」

「こっちも、ですか」

お互い笑って、言葉が続いた。

彼の名前は新田航平。近くの古本屋で働いているという。土手には仕入れの帰り、気分転換に寄るのが習慣だったらしい。

「川の音って、いいですよね。時計みたいに正確じゃないのに、時間が流れてるのがわかる」

「……わかります、それ」

それから、水曜の夕方は“ふたりの時間”になった。

ベンチに並んで座るわけでもなく、すぐ隣にいるわけでもない。ただ、同じ空の下で、少しだけ言葉を交わす。

ときには天気の話、ときには仕事の愚痴。時々は本の話も。

不思議だった。深く知っているわけじゃないのに、心がほどけていく感じ。

ある日、紗季はついこぼした。

「……わたし、本当は、広告の仕事じゃなくて、誰かの“心に残る言葉”が書きたかったんです」

「紗季さんの言葉、ちゃんと残ってますよ。少なくとも、僕の中には」

それを聞いた瞬間、胸の奥に、小さな火が灯った。

気づけば秋が深まっていた。草は色を失い、川風が肌寒さを運んでくる。

紗季は思った。この時間を、もう少し続けてみたい。

けれど、冬の気配と一緒に、仕事の繁忙期も近づく。

次の水曜、紗季は仕事を早めに切り上げ、土手へと急いだ。

ベンチには誰もいなかった。

風だけが、前と変わらず吹いていた。

——また、ここで会えるだろうか。

数日後、会社のデスクに届いた一通の封筒。宛名は「土手の紗季さんへ」。

中には、手書きの手紙と、古びた文庫本。

手紙には、こう綴られていた。

「来週の水曜、晴れていたら、もう少し話がしたいです。土手の風と、あなたの言葉が恋しくなったので」

その日から、紗季の“土手日和”は、ただの癒しの時間ではなくなった。

風の音に、誰かの声が重なる。季節が変わっても、心は少しずつ、確かな方へ向かっている。

そして今日もまた、川辺には風が吹いている。

——静かで、温かくて、少しだけ未来の匂いがする風が。

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