【短編小説】ラグーナの舟と時計屋

SF

アクエルナ——それは、水の都と呼ばれる運河の街。石畳と橋、ゆったり流れる水路。そのすべてが、穏やかに時を刻んでいた。

この街では、家々に「水の鐘(みずのかね)」が設置されている。水の重みと気圧で針が動く、精巧な機械仕掛けの時の鐘だ。鐘は音を鳴らさず、代わりに小さな水音で時間を告げる。ぽとん、ぽとん。響くたび、誰かの一日が始まり、終わる。

ミロはその水の鐘を直す移動時計屋だった。

まだ十四歳の少年。小舟の屋根には看板がぶら下がっている。「ミロ時計修理店。静かな時間、お届けします」

ミロには、他の時計屋にない特別な能力があった。壊れた鐘を修理するとき、その家の「時間の記憶」が見えるのだ。主がどんな日々を過ごし、どんな時間を大切にしてきたか。水の音に混じるように、それが心に流れ込んでくる。

ある日、運河の外れで、ミロは一艘の小舟を見つけた。

中にいたのは、真っ白なワンピースを着た少女。うずくまるように眠っていた。まるで時間の隙間から抜け落ちたような存在だった。

「ねえ、大丈夫?」

声をかけると、少女はゆっくり目を開けた。

「……わたし、誰?」

ミロは驚いた。少女は記憶を失っていた。名前も、来た道も、全部忘れているという。

「じゃあ、君の時間は、止まったままなんだね」

「時間……?」

「うん、じゃあさ、一緒に君の“止まった時間”を直す旅に出よう」

そう言って、ミロは少女を自分の舟に乗せた。

少女は「ナナ」と名乗った。名前だけは口をついて出たらしい。それも、ひとつの“記憶のかけら”なのかもしれなかった。

それから、二人の旅が始まった。

壊れた鐘を直すたびに、ミロはナナと一緒にその家の「記憶」を見る。

ある家では、毎朝同じ時間に夫婦が向き合って紅茶を飲んでいた。だが夫が亡くなってから、鐘が壊れたという。

ある家では、少女の誕生日に父が鐘を贈った。だが娘は街を離れ、鐘は埃をかぶっていた。

どの家も、時間は一度止まり、そしてまた流れ出す。ミロとナナが直すたび、住人たちの心も少しずつ、ほぐれていく。

「ねえミロ、時間って、止まったままでも生きていけるの?」

「うーん……生きてはいけるけど、心は動けないままかもね。でも、誰かが一緒にいれば、また動き出せるよ」

ナナはその言葉を、何度も反芻していた。

そしてある日、街の外れの古い塔に、ひとつだけ「動かない鐘」があった。ミロがいくら修理しても、針はまったく動かなかった。

「どうして……?」

塔の中に入ると、そこには古い写真があった。ミロがまだ赤ん坊のころ、抱いているのは若い女性——ナナによく似ていた。

「これ……お母さん?」

ミロが言うと、ナナは膝をついて、ぽろぽろと涙を流した。

「……私、ミロの姉だったんだ。事故に遭って、記憶が抜け落ちて……」

「だから、僕の時間も、どこかで止まってたんだ」

ミロの心の奥にあった空白。それが、ひとつ埋まった瞬間だった。

塔の鐘が、音もなく“ぽとん”と、水音を立てた。

針が、少しだけ動いていた。

「時間が……また動き始めたね」

「うん、これが“二人の鐘”だね」

旅の終わり、ナナの記憶はすべて戻ったわけではない。でも、ミロと過ごした日々が、彼女に新しい「時間の流れ」を与えていた。

アクエルナの水路には、今日も鐘の音が流れる。ぽとん、ぽとん。

時間は音を立てず、けれど確かに、誰かの心を癒している。

そして、ミロとナナの舟は、次の「止まった時間」を直しに、ゆっくりと水面を進んでいく。

タイトルとURLをコピーしました