人工衛星の軌道監視チームで働く理沙は、決まった時間に鳴る“微かな音”に気づいていた。
それは通常の通信には含まれない、ほんのわずかな周波数の揺らぎ。「アトラス9号」——10年前に打ち上げられた観測衛星から、毎日、午後11時18分にだけ届く短い信号。
誰も気にしない、エラーとして処理されるような断片。
けれど理沙は、それにだけ耳を澄ませ続けていた。
ある夜、いつものようにログをチェックしていた理沙は、ふとした好奇心から過去のデータを掘り起こした。
——信号は、10年前の打ち上げ初日から、毎日同じ時間、同じ周期で届いていた。
まるで、時計のように。
「これって……ただの誤作動じゃない」
興味が確信に変わり、理沙は技術チームの友人に協力を仰ぎ、信号の正体を解析した。
音声だった。
ごく短い、しかし明確な“言葉”が、宇宙から繰り返し届いていた。
『こちら、湊透也。君がこの声を聴いてくれているなら、ぼくの願いは届いたということだ』
透也——その名前に、理沙の胸がふっと熱くなった。
「湊透也って……誰?」
調べていくうちに、一人の青年の存在にたどり着いた。10年前、アトラス9号の開発チームに所属していた若き技術者。宇宙飛行士の選抜試験に挑みながらも、最終選考で落ち、技術スタッフとして打ち上げに関わった。
そして打ち上げの夜、彼は衛星の内部メモリに、自らの“メッセージ”を埋め込んでいた。
「宇宙に手紙を出すつもりだったんだ……」
その言葉に、理沙は不思議な感情を覚えた。
彼の声は穏やかで、夢を語るように静かだった。そこには失望も諦めもなく、ただ、空の向こうに託した願いがあった。
『この地球に生まれて、星を見上げて、誰かを想って、ただそれだけで幸せなんだ。だから、もしこの声を見つけた君も、どうか自分の空を見つけてほしい』
——それは、誰か特定の人に向けた手紙ではなかった。
けれど、理沙には“自分に宛てられた言葉”のように響いた。
彼のメッセージを何度も聴くうちに、理沙の毎日は変わり始めた。
仕事帰りに空を見上げるようになった。データの扱い方が少しだけ丁寧になった。ふとした拍子に、誰かに優しく声をかけるようになった。
一度も会ったことのない人が、こんなにも自分の心を動かしている。
それは“想い”だった。
やがて理沙は、自分でも一通の手紙を書く。
アトラス9号に送る、返信のような手紙。
——湊さん、私は今、星を見上げています。
——あなたの声に出会ってから、世界が少しだけ、優しく見えるようになりました。
——この地上から、あなたに、ありがとうを届けます。
理沙はそれを、自分の研究端末にだけ保存した。
誰にも知られず、誰にも届かないかもしれない手紙。
でも、夜空のどこかで、アトラス9号が今も周回しているなら——あの信号の向こうに、彼がいる気がした。
それからも、毎晩11時18分になると、理沙はそっと耳を澄ませる。
微かに届くその声は、きっと彼女だけが聴けるもの。
星に手紙を送る日があるとすれば、それは、想いが静かに誰かを動かす日。
たとえ直接会えなくても、想いは軌道のように、いつか交差する。
今日も、宇宙のどこかをまわる衛星に、ひとつの“心の声”が乗っていた。

