その夜、町の広場ではお月見イベントが開かれていた。
屋台の明かり、すすきの飾り、そしてステージでは子どもたちが詩を朗読していた。小学生の蓮も、家族と一緒に参加していたが、なぜか胸の奥がざわざわしていた。
——満月は、なにかを呼んでいる。
そう感じたのは、広場の隅にある古い石碑の前で立ち止まったときだった。
いつもならただのベンチしかない場所に、小さな坂道が伸びていた。
「こんな坂、あったっけ……?」
誰にも気づかれないまま、蓮は吸い寄せられるようにその道をのぼった。
坂の先には、不思議な光景が広がっていた。
満月の光に照らされた、銀色の丘。その上では、無数のうさぎたちが静かに準備をしていた。背中に荷物を背負った者、星の地図を広げて話す者、もち米のような石を積む子どものうさぎたち——
「ようこそ、人の子よ」
ひときわ大きな耳をした年老いたうさぎが、蓮に気づいて声をかけた。
「……どこ、ここ?」
「ここは“帰る丘”。わたしたちは、満月の夜にだけ、この地に現れる。月に帰る準備をしているのだよ」
「月に……?」
「そう。けれどまだ、帰れぬ者たちもいる。わたしたちには“最後の願い”が必要なんだ。それがそろったとき、ようやく空への道が開く」
蓮は、戸惑いながらもうさぎたちの間を歩いた。彼らは言葉少なだったが、目は優しかった。
「ねぇ、“最後の願い”って、なに?」
小さな子うさぎが、ぽつりと答えた。
「誰かのために、誰かが本気で願った言葉……だって」
そのとき、蓮の脳裏に、妹の顔が浮かんだ。
数ヶ月前、大きな手術を控え、不安そうにしていた妹に、蓮は泣きながら祈ったのだ。
——どうか、元気になりますように。
その言葉は、自分の心から出た“はじめての願い”だった。
「もしかして……その願い、まだ空に届いてなかったの?」
老いうさぎが微笑んだ。
「いや、ちゃんと届いていた。ただ、その願いは“帰る者たち”を導く灯にもなる。だからこそ、今日、おぬしはここに呼ばれたのだ」
月の光が、蓮の頭上に注ぐ。
すると、丘の中央にある石が、ふわりと浮かびあがった。
「これで、わたしたちは帰れる」
光の粒が舞い、うさぎたちは一匹ずつ月に向かってのぼっていく。
最後に、老いうさぎが蓮に手を振った。
「ありがとう、人の子よ。おまえの願いは、“帰る道”を照らす光だった」
蓮は黙って、手を振り返した。
気がつくと、広場のベンチに戻っていた。
家族の声、笑い声、屋台の香り。
あの坂道は、もうどこにもなかった。
だが、夜空の満月は、確かに一筋の道を描いていた。
そしてその横には、ぽっかりと小さな雲のうさぎが浮かんでいた。
——誰かのために願う気持ちは、たとえ見えなくても、きっとどこかで誰かを照らしている。
蓮は、妹のもとに駆け寄った。
「……おかえり!」
そう言って、ぎゅっと手を握った。
月の光が、優しくふたりを包み込んでいた。

