「ご訪問、失礼いたします。政府公認・幸福代理店、担当のセオです」
白いスーツに、無表情な人工音声。だが、その声の主は人間——若手代理人、セオ・ユイチだった。
ドアを開けたのは、やせた老人。杖をつき、眉間に深く刻まれた皺が印象的だった。
「またか。前も来たろ、幸福なんて、いらんよ」
「AIスコアによると、今週のあなたの幸福度は“23.5%”。警戒水準を大きく下回っております。よって、幸福の代理提供を開始します」
「……勝手に決めおって」
老人の名は佐伯善次。87歳。一人暮らし。家族なし。認定幸福度スコアは常に最低ランク。ここ数年、彼の記録には「幸福を感じた形跡」が一切ない。
「なんであんたらは、そんなに“幸福”を押しつけたがるんだ」
「制度ですので」
セオは機械的に答えたが、その目はどこか揺れていた。
代理人の仕事は、対象者に“幸福のシミュレーション”を提供すること。過去の記録、個人の嗜好、潜在的な願望をもとに、短時間で「幸福と感じうる体験」を投影する。
それは映像であったり、香りであったり、身体的な快感だったりするが——佐伯の場合、いずれも「効果なし」と記録されていた。
「セオさん、だったか。あんた、自分は幸福だと思うか?」
不意に問われ、セオは言葉に詰まった。
代理人は、基本的に「幸福であること」が求められる職種だ。だが、彼自身、心のどこかで自分の“幸福度”を疑っていた。
「俺はな、幸福だった記憶がない。結婚もしなかったし、仕事は食ってくだけ。好きなもんも特にない。……でも、それがいけないことなのか?」
「いえ、判定としては、社会的孤立と情動反応の低下によって——」
「ほら、また数字か。あんたらは、幸福ってやつを“数”で測れると思ってる」
セオは言葉に詰まった。
その夜、代理店に戻ったセオは、佐伯の過去ログをもう一度精査した。膨大な映像記録、発話データ、医療記録。どこを見ても、心から笑った記録は見当たらなかった。
ただ一つ、幼少期のアナログ映像にだけ、奇妙な反応があった。
白黒の、古びたホームビデオ。砂浜を走る少年と、犬。風に舞う帽子。声は入っていないが、少年が笑っているのがわかる。
「……これだ」
翌朝、セオは再び佐伯のもとを訪れた。
「昔、犬を飼っておられましたか?」
「……ああ。“マル”って名の雑種だ。どこにでもいる、茶色の。もう、とっくに死んだ」
「この映像、覚えていますか?」
セオは映像を投影した。佐伯は最初こそ無表情だったが、やがて眉間の皺が少しだけ緩んだ。
「……懐かしいな」
「そのとき、幸福だったとは思いませんか?」
佐伯はしばらく沈黙した。
「さぁな……。ただ、あのときは、時間があっという間だった。夕陽が沈むのが惜しくて、もっと遊びたかったのを覚えてる」
セオはうなずいた。
「それで十分です。それは、“幸福の記憶”です」
「……もらったんじゃない、俺の中に、あったんだな」
「ええ。私たちは“提供者”ですが、本当は“思い出す”手助けをしているのかもしれません」
佐伯は微かに笑った。
その日、セオの端末に表示された幸福度スコアは「48.7%」へと上昇していた。
それは、システムにとってはただの数値かもしれない。けれどセオにとっては、確かに“心に残る仕事”だった。
帰り道、セオは夜風に吹かれながらふと呟いた。
「幸福って、受け取るものじゃなくて、思い出すものなのかもしれないな……」
空を見上げると、星がひとつ、ぽつりと瞬いていた。

