【短編小説】雨の廊下に消えた声

ミステリー

その日、瑞樹はサークルの帰り道、突然の夕立に見舞われた。

傘は持っていなかった。黒い雲が空を覆い、雷鳴とともに、街は灰色のカーテンに包まれる。ずぶ濡れになりながら、彼は偶然目に入った建物の前で足を止めた。

苔むした門柱、錆びた鉄の門、そして奥にそびえる洋館。

見覚えのない場所だった。けれど、どこか懐かしい気配があった。

鉄門は鍵がかかっておらず、軽く押すと軋んだ音を立てて開いた。迷いながらも、瑞樹は足を踏み入れる。

——ただの雨宿りのつもりだった。

館の中は、ひんやりとした静けさに包まれていた。古い木の床が軋み、天井には装飾の施されたシャンデリアがぶら下がっている。家具には白布がかけられ、時計の針は止まったまま。

無人のはずのその洋館で——瑞樹は“音”を聞いた。

奥の方から、微かにピアノの旋律が流れてくる。

古典的で、切ない旋律。誰かが弾いている。けれど、その音はどこか不自然だった。遠くにあるのに、やけに鮮明で、息づかいのような“何か”が混じっていた。

興味と不安が入り混じるまま、瑞樹は音のする方へと進んだ。

廊下は長く、雨音が窓を叩くたびに、足元に不安が走る。やがて、古びたドアの前にたどり着いた。ピアノの音は、その中から響いている。

そっとノブに手をかけると、扉は重たく開いた。

そこは、小さな音楽室だった。ピアノは埃に覆われている。誰もいない。

けれど、音は確かに鳴っていた——瑞樹が入ってきた瞬間、ふっと止まった。

「……誰か、いるんですか?」

返事はなかった。

部屋の隅に、一冊の古いアルバムがあった。開いてみると、白黒の写真。子どもたち、ピアノの前に座る少女、そして最後のページにだけ、切り取られたかのように顔が消された一枚の写真。

背筋に冷たいものが走る。

瑞樹はその後、大学の図書館で調べを進めた。

洋館は戦前、地元の音楽家・榊原家の私邸だったという。だが、ある日を境に家族ごと消息を絶ち、屋敷は封鎖されたまま放置された。残されたのは、「娘がピアノを弾きながら消えた」という噂だけ。

——“声のない主”が、今も館をさまよっている。

瑞樹の脳裏に、あの旋律が蘇る。

雨の日にだけ聴こえるピアノの音。誰にも気づかれず、誰にも届かない、記憶の残響。

再びあの館を訪れたのは、一週間後のことだった。空にはまた、灰色の雲が広がっていた。

前と同じように、鉄門は開いた。ピアノの音が、また聴こえる。

音楽室に入った瑞樹は、ゆっくりとピアノの前に座った。

誰かがそこにいる気がした。触れられそうで、触れられない存在が。

彼は鍵盤に手を置いた。旋律の続きを、自分の指で奏でてみた。

——その瞬間、まるで風が吹き抜けたように、背後で誰かが微笑んだ気がした。

音楽室の空気がやわらかく揺れ、埃が宙を舞う。

そして、最後の音が消えたとき——ピアノの上に、ひとひらの手紙が落ちていた。

「ありがとう。やっと、思い出してもらえた気がする」

そこには、かつて少女だった“彼女”の字で、そう書かれていた。

雨は、いつの間にか止んでいた。

瑞樹は静かに館を後にした。振り返ると、洋館の窓辺に誰かが立っていたような気がした。けれど次の瞬間、それは雨上がりの光に溶けて消えた。

あの日、廊下に消えた“声”は、たしかにまだ、そこにあった。

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